第61回福岡国際マラソン選手権大会 参戦記 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
これまでトライアスロンを含めて「世界選手権」代表選手選考会という場には、何度か出場(遭遇)しましたが、今回のように「オリンピック競技大会」代表選手選考会に出場することになったのは初めて。世間の注目度は非常に高かったですね。 反面、自分自身は練習が十分に出来ずに乗り込み、予想はされていたものの38.5kmで収容されてしまいました。「あと3.7kmかあー。」という感じで、よくぞ38.5kmまで逃げ切れたものだと感心してしまいました。 9回目の出場となる2月の別大マラソンでは、きっちり走りたいものです。
歴史ある福岡国際マラソン 私自身3回目の出場となる福岡国際マラソンの歴史について大会要項などからまとめました。 福岡国際マラソンは、日本で「マラソンの父」と言われた金栗四三の功績をたたえる「金栗賞朝日マラソン」として第1回大会が昭和22年(1947年)に熊本市で開催されたのが始まりです。意外や意外、最初は福岡ではなかったんですね。 その後、開催地が高松市、静岡市、広島市、福岡市、宇部市、名古屋市、鎌倉市と転々と移りながら開催され、第9回大会から「国際朝日マラソン」と名称を変え、第11回大会以降開催地が福岡市に定着しています。 昭和41年(1966年)に、日本陸連が世界陸連(IAAF)に対して世界選手権の開催を提案し、実質的に世界一を決める国際マラソン選手権として福岡国際マラソンが充てられることになり、第20回大会から“Open Marathon Championship”として選手権(Championship)を名乗る唯一の国際レースになっています。また、第28回大会より福岡の名前を冠して福岡国際マラソン選手権となり現在に至っています。 昭和42年の第21回大会ではデイク・クレイトン(オーストラリア)が2時間9分36秒4で優勝。世界で初めて2時間10分を切る記録が出ました。第25回〜第28回はフランク・ショーター(アメリカ合衆国)が4連覇。第32回〜第34回は瀬古利彦の3連覇。また、数多くの名勝負もこの福岡が舞台となっています。 なお、歴代優勝者の足型プレートが博多駅博多口広場に埋め込まれているそうなので、来年こそは一度見てこないといけませんね。 (注 以下は、第62回大会の出場2日前に一年前のことを思い出して書いています) Aグループ、Bグループ 従来の標準記録の参加のみ認めていたAグループのほか、大濠公園をスタートとするBグループの制度が出来たのが3年前(平成16年)の第58回大会から。市民ランナー向けにこの大会が改装されて4回目となる。 スタート場所を平和台陸上競技場と大濠公園と分けて、これまでの福岡国際マラソンのステータスを残しながらも参加枠を広げて開催したことについては、選手の間では概ね良好に受け入れられているようである。 AB2グループ制の初年度こそ、枠が拡がったにもかかわらず参加標準記録を持ち合わせていなかったため、私は出場することが出来なかったものの、翌年2月の犬山ハーフマラソン(平成17年2月)を1時間13分50秒で走りハーフマラソンでの参加標準記録(1時間15分00秒以内)を突破。 この頃はあまり感じなかったが、年々出場し続けるための参加標準記録を確保するのがシンドくなってきた。今、「ハーフマラソンで1時間15分以内で走れるか?」といわれると非情にあやしい。なるべくならば、この福岡国際マラソンまたは別府大分毎日マラソンのような記録の出やすいいずれかの大会において、マラソンで2時間45分以内で走り続けながら翌年、翌々年の参加標準記録を確保していきたいし、何とか50歳まではこの大会に出続けたいと思う。毎年、この大会に出場し続けるというのは、私の中では競技を続けていくとても良いモチベーションとなっている。 N700系で博多入り この年の7月に東海道・山陽新幹線で営業運転開始されたのが「N700系」。導入当初は東京−博多で下り2本、上り3本と希少列車。12月1日から上り下りとも8本に増発されたものの、希少列車であることには変わりがない。せっかくなので、今回列車を選んで博多まで乗っていくことにした。
一日乗車券 福岡国際マラソン当日のみ使用できる1日乗車券を売っているのを見つけました。昨年まではなかったはず・・・? 福岡国際マラソンも名古屋国際女子マラソンと同様、地下鉄に比較的沿ったコースを走るので観戦には便利ですね。もちろん私も購入しました。当日使ったのは、博多−大濠公園の往復だけでしたけどね。
大会前日 昨年は第60回の記念大会。付属するイベントも多くあったが今年は「第61回」とあって特に目立ったものはない。大会前日には18時から、受付場所と同じ西鉄グランドホテルで「選手交流の夕べ」があるが、今年は早々に受付をして明日の会場(平和台陸上競技場、大濠公園)の下見をしてホテルへ戻ることとする。前日にあまり慌ただしく過ごすのは好きではない。 それにしても今日は暖かくいい天気だ。大濠公園にいるとポカポカして非常に気持ちがいい。明日もこんな感じであると助かるのだが・・・。
福岡、初の関門閉鎖
残念ながら昨年のことはほとんど忘れてしまったので、記憶している範囲のことを書いておきます。 大会当日は、日本海側独特のどんよりした天気でもなく、12月にしては比較的暖かい日でした。 体調的には特に悪いこともなかったのですが、一番不安であったのが練習不足の影響。 昼休み時間が60分から45分に減ったことから、昼休みに行っていたポイント練習がやりにくくなったことや走行距離の減少でした。 5kmの入りは18分39秒とまずまずですが、ペース的にはややオーバーペースだったかもしれません。前半の関門が5kmあたり19分30秒ですので、ややもすると関門にひかかってしまいます。 5kmで関門まで約1分ほど余裕があることがわかったので、ややペースを落とし5km−19分00秒ペースにしました。このままイーブンで進めば十分に帰ってこれます。2年分の出場権も確保できます。 福岡国際マラソンは応援が多く、非常に走るのが楽しい大会です。 25kmくらいまでは応援にも助けられて順調に走れていました。「練習不足でも何とかなるのかな?」ともやや疑問に思いながら走っていました。 しかし、名島橋を過ぎたあたりから脚が重く体の動きが悪くなってきました。ちょうど先頭を走っていたワンジル(トヨタ自動車九州=北京五輪マラソン金メダル)ともすれ違ったのが、この少し先です。 ここまで5kmあたり19分02秒〜19分09秒で進めてきたのですが、25km〜30kmが19分46秒。残り12kmが黄信号です。向かい風でタイムが落ちたわけではありません。 31kmの香椎を折り返してからは、関門との戦いになってきました。 35kmを2時間15分19秒で通過。関門は2時間18分00秒ですから十分余裕があります。ただし、この5kmは20分36秒ととうとう4分/kmのペースを超えてしまいました。 ここから先は、体感的にもジョギングペースに毛が生えた程度です。どんどん後続のランナーに抜かれる始末です。36km、37kmと1kmずつクリアして前に進むだけ。どこかの関門でひかかるかもしれないですが、最後のあがきです。 そして40kmの関門に到達するはるか前、「築港本町」交差点でとうとう捕まってしまいました。38.5km地点くらいでしょうか。大相撲九州場所の開催される福岡国際センターのそばで博多駅前から北西に延びる道路のほぼ突き当たりです。38.5kmという中途半端な場所で、大会要項には記載されていない場所での関門ですが、あのまま走っていっても40kmの関門はクリアできなかったでしょう。仕方がないです。 収容されたのはバスではなくワゴン車。 この地点で私と一緒に収容された一人に山本康夫さん(静岡県)もいました。山本康夫さんといえばかつての快足ランナー。フルマラソンでも2時間20分くらいで走っていた選手です。私よりも少し年上だと思いますが、山本さんといえども加齢による衰えは隠せないというところでしょうか。 さて、今回は「途中棄権(関門通過できず)」という残念な結果になってしまいました。完走できなかった第一の原因はやはり「練習不足」です。生活の中で練習時間を生み出すためのやりくりがうまくできなかったことが問題ですが、「加齢による衰え対策」も取っていかなければならないと感じました。 とりあえず、この2つの課題のうち時間のやりくりによる練習時間の確保については、平成20年2月の第57回別府大分毎日マラソンで一応結果が出たのでOKとしますが、もう一つの「加齢による衰え対策」については、第62回の福岡国際マラソンにおいてその成果を示したいと思います。 出場資格がある限り、懲りずに出場したいと思いますので、今後も応援よろしくお願いいたします。
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