第33回奥川健康マラソン大会 参戦記
 前回、福島県を訪れたのは平成6年。実に14年ぶりに福島県に出没です。

 福島県は、県内を地形・気候・交通・歴史などの面から、太平洋と阿武隈高地にはさまれた「浜通り」、阿武隈高地と奥羽山脈にはさまれた「中通り」(以上、太平洋側)、奥羽山脈と越後山脈にはさまれた日本海側の「会津」の3地域に分けらます。前回はこの「中通り」の福島市内で開催された阿武隈トライアスロンでしたが、今回は福島県の西端の町「西会津町」で開催された「奥川健康マラソン」についてのレポートです。

 奥川健康マラソンの「奥川」とは、この西会津町の「奥川地域」に由来しています。この奥川健康マラソンは今回で第33回を数え、福島県内の健康マラソン大会としては老舗に位置づけされるそうです。それだけに少人数ながら強者揃いの大会で、「奥川健康マラソンここにあり!」というようなステータスを感じる大会でした。

 
●大会名 第33回奥川健康マラソン大会
●開催日 平成20年6月15日(日)
●コース
 /大会要項

 /プログラム
奥川小学校発着(福島県耶麻郡西会津町) →詳細地図

大会要項

プログラム

コースマップ(大会要項から)
それぞれクリックすると拡大します
●天 候 晴れ、19℃
●参加賞 今年の干支の「子の張子」、おにぎり、山菜汁、遠来賞(会津桐の箱)
●結 果 16分58秒(5km) (40〜49歳男子・第2位、総合第7位)
●表 彰 メダル、賞状、タオルセット(副賞)
●過去の戦績 初出場
●交通手段等
【6月14日(土)/1日目】
徒歩 自宅 5:55 自由ヶ丘駅 6:05
地下鉄 自由ヶ丘 6:07 本山 6:10
本山 6:20 名古屋 6:34
新幹線 名古屋 6:50 品川 8:19
JR 品川 8:27 新宿 8:45
高速バス 新宿南口 9:10 会津若松駅 13:30
【会津市内観光〜会津市内泊】
【6月15日(日)/2日目】
徒歩 ホテル 6:08 七日町駅 6:25
JR 七日町 6:30 会津若松 6:33
会津若松 6:55 野沢 7:51
主催者手配バス 野沢駅 8:00 会場 8:35
【10時52分スタート 第33回奥川健康マラソン大会 5kmの部】
主催者手配バス 会場 13:23 ロータスイン 13:50
入浴〜食事〜休憩】
循環バス ロータスイン 18:12 野沢駅 18:25
JR 野沢 19:20 新津 20:54
新津 20:58 新潟 21:17
夜行バス 新潟駅前 22:45 名鉄BC 6:00  (実際は5:56)
【6月16日(月)/3日目】
地下鉄 名古屋 6:07 本山 6:21
本山 6:33 自由ヶ丘 6:35
徒歩 自由ヶ丘駅 6:35 自宅 6:46
●費用
参加料 2,500円  
地下鉄 520円 (自由ヶ丘〜名古屋/往復)
JR 7,900円 (名古屋〜東京〜新宿)
高速バス 2,500円 (新宿南口〜会津若松駅)
宿泊 4,000円 (会津若松市内/ホテル石橋)
バス 500円 (会津若松市内専用フリー乗車券)
入場料 210円 (福島県立博物館)
JR 740円 (七日町〜野沢)
同上 1,450円 (野沢〜新潟)
入浴料 400円 ロータスイン
夜行バス 7,800円 (新潟駅前〜名鉄BC)
合 計 28,520円  
●種目及び参加者(申込人数、★は加藤が参加した部門)
距離   区 分 参加者 スタート時間
10km   高校生男子 4名 10時50分
一般男子(40歳未満) 33名
40歳代男子 51名
50歳代男子 62名 10時54分
60歳以上男子 41名 10時00分
5km   中学生男子 56名 10時52分
高校生男子・一般男子(40歳未満) 27名
40歳代男子 19名
  50歳代男子 33名 10時54分
60歳以上男子 33名 10時56分
高校生女子・一般女子(40歳未満) 19名 10時54分
40歳以上女子 24名 10時56分
3km   中学生女子 76名 10時56分
2km    親子(小学1・2年生とその父または母) 47組 10時02分
小学3・4年生男子 46名 10時24分
小学3・4年生女子 33名 10時26分
小学5・6年生男子 63名 10時28分
小学5・6年生女子 29名 10時30分
  合  計 743名  
●10km及び5kmの3位までの入賞者のみ)
【10km】
高校生男子
二瓶 大 17 会津農林高等学校 34’09”
石山弘翔 15 坂下高等学校陸上部 37’03”
板橋直樹 15 坂下高等学校 37’19”
一般男子(40歳未満)
加藤伸治 31 爆走戦隊!走レンジャー 30’59”
五十嵐由次 34 東北電力会津若松支社 33’33”
小林貴裕 37 オン・セミ 34’02”
40歳代男子
成海 昇 43 立川ブラインド(株) 34’41”
酒井 透 43 国見町駅伝部 35’20”
高橋 誠 41 塩川陸上スポーツ少年団 36’28”
50歳代男子
斎藤英二 52 いわき泉RUN 37’29”
生天目測 51 郡山緑ヶ丘RC 38’55”
柳下久雄 56 ブリヂストン 39’48”
60歳以上男子
すみません。不明です。
【5km】
中学生男子
真部勇希 15 山都中学校 17’07”
渡部哲平 14 山都中学校 18’05”
武藤駿介 14 東和中学校 18’34”
高校生男子・一般男子(40歳未満)
松崎政継 22 塩川陸上スポーツ少年団 16’14”
薄上紘太郎 17 喜多方高等学校 16’19”
塚原史章 19 爆走戦隊!走レンジャー 16’37”
40歳代男子
森永伸一 40 飯舘村教育委員会 15’35”
加藤一郎 46 名古屋市役所走友会 16’58”
渡辺福佳 41 オレンジーズ 17’09”
50歳代男子
山口芳夫 50 相馬原第48連隊 17’06”
林 英滋 55 いいたて健走会 17’53”
佐藤光正 53 川俣AC 18’49”
60歳以上男子
鹿野克夫 65 松浦建工所RC 17’34”
山口 勲 60 日立ニコ 19’29”
村上俊弘 61 福島走ろう会 19’32”
高校生女子・一般女子(40歳未満)
佐藤彩華 16 相馬農高飯舘分校 18’19”
馬場夕奈 15 ランニングクラブ南郷 18’44”
梅宮あゆみ 25 爆走戦隊!走レンジャー 18’50”
40歳以上女子
谷澤美智子 50 広瀬小学校 23’03”
多田恵子 60 横浜緑走友会 23’09”
木村昭子 50 群馬県 23’10”

会津若松の町並み
 時間があれば訪れてみたかったところの一つに、会津若松がある。
 会津若松は福島県西部、会津地方の中心都市で人口は約13万人の街である。
 会津若松の魅力は、何といっても歴史的な街であり、また、いまだにその歴史的価値が保存されているところにある。

 今回、マラソン大会の前泊場所であり、マラソンのついでの観光となったが、大正から昭和にかけての町並みがあらゆるところで保存され、かつ、使用されていたのには驚いた。岐阜県恵那市に大正村、また同じく岐阜県美濃加茂市にはテーマパークとしての昭和村がある。会津若松の町並みは、大正村よりは規模は遙かに、また昭和村よりは遙かに自然な感じである。特に私が宿泊をした七日町地区は、あちこちで町並みが保存され情緒の豊かさを感じることができた。
 名古屋からは、アクセスとしてはやや難があるが、一度は訪れてみる価値が高い街であると思う。

野口英世

 会津若松といってまず思い出すのが野口英世。現在は1,000円札にその肖像画が描かれている。
 私が子どもの頃、最初に読んだ伝記が”野口英世”だっただけに非常に印象深い。

 野口英世の出身は、会津若松の隣町の猪苗代町であるが、1歳の時に囲炉裏に左手の大やけどをしているが、その癒着した左手の手術をしたのがこの会津若松の渡部鼎医師であり、野口英世は感動しここで毎日遅くまで医師を志し勉強したといわれている。

 今回宿泊したホテルのフロントで「野口英世は確か猪苗代の出身だったはずですが・・・」と尋ねたが、「出身は猪苗代だが、手術や医師を目指して勉強したのはこの会津若松。ここからちょっといったところに野口英世の手術をしたという医院の跡があるよ。今は、1階が喫茶店になっているけどね」と。野口英世は間違いなく、この会津の郷土の誇りのようだった。

「野口英世青春通り」。会津若松を南北に走る通りに名付けられている。野口英世は15歳から19歳頃までこのあたりで過ごしたようだ。平成4年に命名された。

「野口英世青春広場」。街の中を散策している旅行者や市民向けに休憩所として開放している。奥には野口英世の銅像がある。

野口英世青春広場にそびえ立つ銅像。銅像の横には、彼の業績が英文で書かれている。

旧会陽医院。アメリカから帰朝し最新の医療技術を身につけていた渡部鼎医師によって野口英世の左手の手術をした。野口英世はその奇跡に感動し、会陽医院の2階で猛烈に勉強をしていた。現在、1階は喫茶店、2階は閲覧できる。

鶴ヶ城


会津若松市民からは「鶴ヶ城」と呼ばれ親しまれている。
 会津若松の市街地の南端に街のシンボルとしてそびえているのが「鶴ヶ城」だ。
 国の史跡としての指定名称は「若松城跡」ではあるが、会津若松市民から「鶴ヶ城」として親しみ呼ばれている
 もともとは「黒川城」と呼ばれていた「鶴ヶ城」であるが、近江出身の蒲生氏郷が城主となったことにより、それからは「鶴ヶ城」と呼ばれている。これは蒲生氏郷のい幼名「鶴千代」に因むものであるそうだ。

 参考までに、現在「会津若松」と呼ばれているこの地も、もともとは「黒川と呼ばれていたが、ここを「若松」と改めたのも蒲生氏郷である。
 「若松」の名は、蒲生氏郷の出身地の日野城に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来している。

 また、幕末の戊辰戦争の局面の一つで、この会津地方で繰り広げられた会津戦争は、この鶴ヶ城を語らずに終わることはできない。
 そもそも会津戦争とは、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府と会津藩とこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府勢力との間で行われた戦いのことである。

 文久2年(1862年)、当時の会津藩主・松平容保は京都守護職(京都の警備を担当する要職)に就任し、尊攘派志士の取り締まりなど幕府方の中核となって奮闘していた。
 この経緯もあり、薩摩・長州を中心とした新政府に幕府方の首謀者として会津藩は、鳥羽・伏見の戦い後、新政府から追討令を受ける。

 追討を命じられた仙台藩、米沢藩など東北諸藩は会津藩に同情的で、会津藩赦免の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟を結成し結束を強めた。また、奥羽越藩同盟では、会津藩が新政府の通達に対して罪を認めず謝罪を拒否する回答書を示した事などから戦争に傾くことになる。
 そして会津戦争において会津勢はこの鶴ヶ城に立てこもり、約一ヶ月耐え抜いた。板垣退助勢に薩摩の援軍の助けをかりてもついに落ちなかったというのがこの鶴ヶ城だ。

 今日訪れた平和な会津若松。当時は歴史に名を残す大きな出来事が繰り広げられていたのですね。

白虎隊

 またこの戊辰戦争において有名になったのが「白虎隊」だ。

 白虎隊は、この会津戦争に際して会津藩が組織した、15歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。本来は予備兵力であり、城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊であったが、これを支援する形で前線へと進軍した。少年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局,にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入されている。

 しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられた。
 一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は「戸ノ口原の戦い」で決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた。だがここから眺めた戦闘による市中火災の模様を「鶴ヶ城」が落城したものと誤認し総勢20名が自刃。一命を取り留めた飯沼貞吉を除く19名が死亡した。

 ところが実際に「鶴ヶ城」は落ちておらず、途中はぐれた白虎隊の庄田保鉄らはその後、鶴ヶ城に入城出来た。 士中一番隊の生存者と共に白虎士合同隊となって、西本丸を守った。 篭城戦は1ヶ月続いたが、最終的に会津藩は降伏している。

 飯盛山で自刃し唯一一命を取り留めた飯沼貞吉は、電信技士として維新後を生き抜き、1931年に79歳で亡くなっている。
 飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の最期の様子が現在に伝わっている。


白虎隊が自刃したといわれる飯森山

自刃した19名の白虎隊の墓

白虎隊が自刃したといわれる場所

飯盛山からみた会津若松市街地

自然豊かな西会津町
 さて、歴史的文化財の多い街・会津若松で一泊し、いよいよ今回の目的地の西会津町に出かける。
 西会津町は、会津若松からでもJR磐越西線に乗ること約1時間、福島県の北東に位置する自然豊かな町だ。ちなみに西会津町より西は新潟県。県境に位置する町である。

 人口約8,000人の西会津町。もちろん初めて訪れたが、非常に自然が豊かなところだ。
 西会津町は、平成16年9月に「西会津町自立宣言」を行い、町民・議会・行政による共同で他の市町村との合併をしない道を選んでいる。これには前三重県知事で現在は早稲田大学・教授の北川正恭氏がかなりアドバイスを加えている。
 個人的には、地方が活性化し地域の特色を生かして日本全体が活性化していくことに賛成である。西会津町の取り組みもまだ始まったばかりであるが、今後の動向に注目していきたいと思う。

地方マラソンの良さ


大会当日の「福島民友新聞」から

 今回は、JR野沢駅から西会津町役場がマイクロバスを運行してもらったおかげで、会場の奥川小学校まで行くことができたが、そうでなければ自家用車で行くしかない。
 閑古鳥が鳴いているだろうと推測していた送迎バスも、地元の中学生がたくさん乗り込んでいるので空いている席は少なかった。
 あきらかに地元以外からの参加は自分を含めて4名程度。私以外の3人は、いかにも既にリタイア(定年退職)した人ばかりだ。

 西会津町内にはJR駅が4カ所。
 これを一カ所ずつ回って会場の奥川小学校に行くので、非常に遠回りで35分もかかった。途中から乗ってきたのは地元の中学生一人であった。

 さて、会場の奥川小学校には私が思っていた以上に多くの参加者がやってきていた。日頃は静かなこの小学校も、一年の中では最も賑やかな日になっているのではないのであろうか。
 町の人が、今大会を一つの大きなイベントとしてとらえ、一生懸命準備していることがよく伺える。大人はバザーをはじめとする会場準備、子どもは子どもでマーチングバンドを披露してくれた。地元住民の参加率が高ければ高いほど、その町の様子がよく見えてくる。私の地方に行く楽しみの一つであり、今大会もそういう意味では名古屋から遠路はるばるやってきた甲斐があったと思う。

 ちなみに先週の「奥秩父三峰山マラソン大会」に引き続き今回も「遠来賞」をいただきました。

会場の奥川小学校。西会津町にある5つの小学校のうちの一つだ。

たこ焼、米沢牛串焼、黒豚カツ、から揚げ、クレープを販売するブース

こちらはイワナ、ヤマメの塩焼き。清流にしか住まない魚を味わえる山奥の地域ならではのコーナーだ。

手打ちそば屋さんのコーナー

地元奥川小学校のマーチングバンド。地域総出の様相が漂っていて非常によかったですね。

観覧者も運動会のノリで、ちょっと懐かしいような感じでした。

佐藤敦之(中国電力)と西会津町
 昨年の福岡国際マラソンで2時間7分13秒(日本人1位、日本歴代4位の記録)で北京オリンピック行きを決めた佐藤敦之(会津若松市立第四中→会津高校→早稲田大学→中国電力)は、会津若松市の出身だそうだ。
 昨日みた会津若松市役所には、彼の北京オリンピック出場を祝い横断幕が掲げられていた。

 さて場所は変わって西会津町。今回この大会が開催される西会津町の奥川地区には、現在も彼の祖父母が在住とのこと。その縁もあって、「町として彼のために何かできることはないか」と考えたところ、今大会を通じて応援メッセージを彼に贈ることを決めたそうだ。
 会場の隅には日の丸の旗が2つ置かれていたが、帰る頃にはぎっしりと応援メッセージが埋まっていた。オリンピックに出場する男子マラソンの3選手のうちで最も期待するのが佐藤敦之。地元の期待を込めて本当に頑張って欲しいと思う。
 また10月には「会津若松鶴ヶ城健康マラソン」ではゲストランナーとして招待される。是非とも凱旋してみんなの前で彼特有の”あの”ほほえみを披露して欲しいものだ。

北京オリンピック代表になった佐藤敦之(中国電力)は会津若松市の出身。彼の祖父・祖母はここ西会津町の奥川地区に在住。この関係から西会津町としても今回佐藤敦之を応援している。

会津若松市役所の正面玄関には、佐藤敦之の北京オリンピック出場の横断幕が掲げられていた。
(写真をクリックすると拡大します)

比較的平坦なコース
 前置きが長くなったけれどいよいよ大会の話し。
 今大会は事前の情報が少なく、コースの高低差などについての資料がネットを探してもなく、現地での出たとこ勝負となる。
 とはいえ、なるべくそういう事態は避けたいので、会場に着いてからウォーミングアップを兼ね、早々にコースの下見に出かける。

 私の愛用しているサイトの一つ「スポーツエントリー」には、コースの特徴として「飯豊の新緑に包まれ、渓流のせせらぎが聞こえる比較的平坦なコース。ただし、日陰が少ないので、晴れた場合には、暑さ対策が必要。」とある。
 山間の町だから”平坦な”ということはあり得ないが、試走して確かに”比較的平坦”という感じだった。


スタートは奥川小学校前

奥川地区には若干の商店があります

1km地点。少しずつ登ってはいますがたいしたことはありません。

2km地点。この前後がやや登り下るところ

5kmコースの折り返し地点

5kmを折り返すとすぐに給水場があります

コースのところどころに掲げられていた幟。沿道ではお年寄りの方の応援が多かった。

コース沿いに見かけたあやめ?

ゴールは奥川小学校グランド。写真は親子部門のトップランナー

校舎の前がゴールゲート

とびっきり速い40歳代

参加賞の一つの山菜汁とおにぎり。山菜汁はなかなかいけましたね〜!
 スタート時の気温は19℃。走るには最適の気温だ。
 今回私の出場する5kmは、中学生から50歳未満男子まで約100人が10時52分に一斉にスタートする。
 今回この中で注目すべきは、今年から40歳代に入った地元福島の森永さんだ。昨年は39歳でこの大会の5kmを15分11秒で走って大会記録で優勝している。名簿を見ると今年から40歳となり、今回私と同じ40歳代で出場することになっている。

 いわゆる健康マラソンは、距離測定がきっちり行われていないことが多く、タイムもそれによっていい加減であることが多々あるので39歳で5km−15分11秒というのも本当に”5km”という距離なのかはわからない。あまり気にしすぎる必要もないかもしれないが、昨年の5km40歳代の優勝者の記録が17分26秒なので、距離はそれなりに測っているようである。

本日の戦利品。左から賞状、メダル、副賞のタオル、遠来賞の会津桐の箱
 とすれば、今日のレースにおいて彼は私の大いなる驚異になるはずである。

 ナンバーカードをプログラムでチェックしていたが、スタートする3分ほど前に彼はスタート地点におもむろにやってきた。精悍そうな雰囲気だ。
 案の定、スタートしてから500mと進まないうちに、私はもとより、とびっきり元気であるはずの高校生までも彼は置き去りにして一人で走っていってしまった。

 後半、彼のスピードがやや鈍っていたような感じはあったものの、終盤には影も形も見えずに一人だけ15分台の記録をたたき出して優勝している。


今回の心拍数。クリックすると拡大します
 かくゆう私は、終盤高校生らとせめぎ合い、ゴールまでもつれながら総合7位、40歳代男子では森永さんに続きゴールした。今回の福島遠征は、森永さんに完全にやられた恰好となった。

 とはいうものの収穫もある。
 昼休みのスピード練習も十分にできずに、スピードが鈍りだしてきた感があるが、何とかややアップダウンのあるコースで久しぶりに16分台が出た。こういうときはコースは正確であると思っていればいい。

 それにしても再度福島にやってこなければいけなくなった。次はどの大会にエントリーしようか。参加賞に山菜汁とおにぎりを出してもらえる。再びこの奥川健康マラソンにエントリーしようか迷うところである。