第21回国立公園十和田湖畔周回ひめますマラソン大会 参戦記 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
先週に続き2週連続東北遠征 先週に引き続いての東北遠征です。 冬の間、一面を雪で覆われてしまう東北地方におけるマラソン大会は、5月から10月頃に集中しています。秋口は、中部地方でも多くの大会が開催されますし、7・8月は東北地方といえどもあまり走るのに適したコンディションにはなりません。昨年出場した「酒田砂丘マラソン(山形県酒田市)」がそうでしたね。「トライアスロンやってるから暑いの大丈夫じゃないの?」と言われますが、決して平気ではありません。そりゃあー暑いより涼しい方が気持ちがいいに決まっています。 ということで、東北地方に出かけるのはどうしても5月・6月に集中してしまいます。 それにしても2週連続しての遠出というのは非常に慌ただしいですね。 前週、帰ってきてから「荷物の整理」−週の中間「仕事/練習」−週末は「出かける準備」とあっという間に一週間が過ぎていきます。20代、30代の前半に比べると明らかに疲労の回復が遅いことがわかりますね。今回は遠距離ドライブということもあって、出かけるのもややブルーな感じでしたが・・・。 とはいえ、一度出かけてしまえば「どんな大会だろう」「コースは起伏あるかな?」「勝てるだろうか」など不安もある反面、付近の名所の見物もしたいし・・・。ひと言で言えば欲張りであります。 それにしても今回の片道1,000kmの自動車での移動は想像以上にハードでした。走っても走ってもたどり着かない。そんな感じ。 2年間限定とはいえETC土・日割引を利用すると、名古屋IC−小坂IC(秋田県)の高速料金が「19,300円→1,000円(片道)」になります。往復の燃料代を加えても、秋田県への往復交通費が、ほぼ2万円で済んでしまいます。エコとは言えないですが、ちょっと利用しない手はないでしょう。 朝6時過ぎに名古屋ICに入り、夕方6時過ぎに高速道路を出るまで、12時間あまりを高速道路上で過ごしました。 景色の移り変わり素晴らしかったですね。中央自動車道から長野道、上信越道では山あいを登ったり下ったり、また右へ左へとうねうねと走ります。妙高高原あたりでは、山の上の方に雪渓も見えました。 そして上信越道を終えると日本海が目の前に現れます。そしてしばらくは米どころの新潟平野の田んぼの中を走り続けます。 今度は磐越道に入ると、再び山あいをアップダウン。途中でダムの放水なども高速道路からみることができます。 郡山で東北道に入ると、一気に交通量が増えます。東北自動車道は、東京〜仙台の幹線道ですね。 そして仙台を超えると交通量が激減。にもかかわらず東北自動車道は、ずっと片側2車線のままです。もうすぐ終点の小坂というあたりでは、本当にがらがらでした。人口密度の違いを垣間見たような気がします。 また景色と同様に気候の変化も激しかったですね。 天気も晴れたり雨が降ったり、気温も新潟あたりでは32℃まで上昇したものの盛岡では17℃まで下がるし、日本の広さをまさに体感したと言えるでしょう。 それにしても、この”1,000円”のために高速道路から降りられないというのはちょっと辛かったですね。
9年ぶりの秋田県。実質は25年ぶり?
とはいえそれは一瞬のこと。青森県主体とした子ども向けのツアーに参加しバスで廻る際に、弘前方面から東北自動車道で南下し十和田湖を訪れる際に、秋田県小坂町側から樹海ラインをバスが登り、発荷峠(はっかとうげ)展望台で休憩をした時以来です。この発荷峠展望台は、十和田湖を見渡せることができる展望台の中でも最も美しい景色が眺められると言われているところで、ツアー主催者側もここから景色を見せたかったのでしょう。 当時はここを青森県だと思いこんでいましたが、今回マイカーであらためて走ってみて秋田県であるということがわかりました(どちらでもいい?)。したがって、秋田県を訪れたのはこの時以来です。当時、4歳だった長男・かずたかは13歳に、2歳だった長女・ゆかこは11歳になりました。 また、一番最初に秋田県に足を運んだのは、大学生時代まで遡ります。 大学3年生(昭和59年)の時、乗船実習で秋田に入港した時以来です。つまり25年前。当時から秋田県というのは遠い存在でした。
「ひめます」とは
この「ひめます」とは、紅鮭(ベニサケ)の仲間のようです。 鮭はご存じのように、産卵となると海から川を遡上し生まれ故郷に戻ってくると言われていますが、ひめますは、もともと同じような行動を取っていたものが海に戻れなくなり、そこに住み着いたもののようです。原産は阿寒湖で陸封型というようです。 明治になって、和井内貞行が十和田湖への移植を成功させたのは有名なことらしく(私は知りませんでした)、現在はこのほか、北海道の支笏湖や洞爺湖、福島県の沼沢沼、奥日光の湯の湖や中禅寺湖、箱根の芦ノ湖、富士五湖の西湖にも移殖されているそうです。 ひめますの棲息場所の適水温が10〜13℃のため、水温が上昇しやすい浅い湖には棲息できず、北日本や山上湖などに棲息が限定されるようですね。
27歳から初めていろんな魚を放流してひめますにたどり着くまで20年かかっています。十和田湖のことを語るには、ひめますと和井内貞行については外すことができないでしょう。 せっかく十和田湖に来たので、実際にこのひめますを食べてみました。 まずは参加賞のひとつの「ひめます汁引換券」を持って大会会場のすぐそばの配布場所へ・・・。 ここでは、あらかじめお椀にひめますが2分の1匹入れたものが積み上げられています。そこへ引換券を持ってきた人が来る度に味噌汁を継ぎ足します。 味噌汁は椎茸の入った「椎茸汁」。ひめますは汁に入ると皮がぺろりとむけて食べやすい状態になりましたが、味噌汁に入ってしまうと、今ひとつ味がよくわからないですね。やはり淡水魚を食べるならば塩焼きがベストですね。 ということで大会終了後、すぐそばの十和田ふるさとセンターでお金を払って「ひめます塩焼定食(1,500円)」を、再度食べることにしました。 そして待つこと15分・・・。 期待のひめますが一匹出てきました。体長は25cmほどでしょうか。このひめます、身が鮭のように「紅色」でした。とはいえ、淡水に住む魚。舌触りは川魚独特の身の柔らかさがありました。確かに美味しいことは美味しいですが、やはり1,500円は「ちょっと値段が高いなあ」という感じでした。 食べ終わって、レジでお金を払うときにおばちゃんに「どうでしたか?」と聞かれました。「いや〜、美味しかったですよ。十和田湖で養殖しているんですか?」と尋ねると、「養殖ではありません。自由に泳いでいるんですよ」と。さらに「ひめますでもプランクトンを食べるものは身がピンク色ですけど、ワカサギを食べるものもいてそういうひめますは身が白いですね。塩焼きもいいけど刺身もいいですよ。なかなか取れなくて貴重な魚なんですよ」と。ひめますはやはり「幻の魚」のようですね。次に来たときは刺身定食を食べさせていただきます。レクチャーありがとうございました。
小刻みなアップダウンのあるコース
十和田湖は、青森県の湖というイメージが強いが、実際には東側の概ね半分が青森県、また西側の概ね半分が秋田県である。 十和田湖の遊覧船の乗場が”休屋”、”子の口”にあること、十和田湖のシンボル「乙女の像」も青森県側。また、十和田湖とセットの観光コースとなっている奥入瀬渓谷も青森県であることもあり、そういう錯覚を起こすのであろう。 ではなぜ西の秋田県側が、あまり観光が盛んではないのか? これは行ってみてわかったのですが、湖畔の道路が、和井内交差点から休屋まで(ここは実は秋田県)は概ね平坦で、湖のそばを走るところが多く観光客を青森県側に行かせるマジックがあります。 それに対して、西の秋田県側は意外と小刻みにアップダウンを繰り返す道路。また、木立の間を湖畔道路が走るために景色は今ひとつ(のような気がします)。 さて、大会のコースといえば、その木立の間を走る湖畔道路。 今回のように、朝方雨が降っていてスタート時間には晴れてしまった場合にも、直射日光が当たるところが少なく比較的快適に走れます。ただしアップダウンは厳しいですね。 スタート前 大会は10時ちょうどに「20kmの部」と「10kmの部」、10時10分に「5kmの部」と「3kmの部」がスタートする。 20kmの部は、十和田プリンスホテル前から南側へ、10kmの部はショップオオモリ前から北へ走り出す。つまりお互いに背中合わせのような形で、別々の方向へ走り出すという設定だ。10分後にスタートする5kmの部と3kmの部も同じ。
今回の5kmは総勢約150人。混雑することなくスタートができるのが嬉しい。 「ピストルは後方で鳴ります」と係員。5kmと3kmと同時にスタートさせるための苦肉の策のようだ。 朝会場に来たときは、小雨だったのであるが、スタート時になるとすっかり雨も上がり太陽もしっかり顔を出している。先週の大会といい、雨上がりのあとは道路から「もわっ」としてくるのがたまらなく辛い。 レース開始
最前列の左側からスタートするが、往年の頃のようなスタートダッシュはしない(できない?)。 一人が大きく飛び出し、その後ろに3人ほどが付いていく。私は、さらにその次だ。 下見をして分かったのであるが、5kmといえども思った以上にコースに起伏があるということだ。 前半は、概ね登り基調、折り返し後半は下り基調となるので、こういう場合は前半にやや多めにエネルギーを投入する。 1kmほど走ると、前の3人の集団の一人が早々と脱落してくる。どうやら彼は、最初だけ頑張る”ニセランナー”のようだった。 一人パスして、スキがあれば前のランナーを捕まえることを考えていたが、差は広がる一方。それどころか後方からも一人のランナーにパスされる。長旅の影響と、最後の調整ができなかったことが影響したのか、今日は(今日も?)いっこうに調子があがらない。 十和田ホテル(スタート場所の「十和田プリンスホテル」とは違うホテル)を過ぎ、折り返し地点よりかなり手前で先頭ランナーとすれ違う。ここまでずっと先頭を独走している。見た感じ、トラックならば余裕で15分台で走るような雰囲気だ。 さきほど後方から抜かれた選手との差はそれほどもなく折り返す。ゴールまでには何とか抜き返して一矢を報いたいところだ。 折り返し場所は、坂の途中の何の変哲もないところ。折り返し後は向きを変えて下っていくが、しばらくすると再び上り坂となる。今年は、仕事が忙しくアップダウンのあるコースでの練習が不足しているので、わずか5kmという短さでも結構堪える。すぐ前の選手との差は、縮まるどころかむしろここで開いてしまった。それよりも前を走る3人は、影も形も見えない。残り1kmくらいからはほぼゴールまで下り基調となるがいっこうにペースが上がらないままゴール。総合で5位でフィニッシュ。年代別の参加者が少なく、こちらは余裕で勝利したものの、レースの出来としては非常に出来の悪いものであった。とはいえ、負けたのはいずれも30歳未満の選手ばかり。まあ、今日はとりあえずヨシとするか・・・。
温泉三昧?
日帰り入浴できると宣伝するので、さぞかし素晴らしい”大浴場!”を期待する。フロントで500円払い、場所を訊くと、すぐ左に曲がった先にあるという。なるほど「大浴場」の看板がある。 「500円払ったのだから」と期待して行ってみると、そこにはちっちゃな浴槽がひとつポツリ。5〜6人入れば満員になってしまうような代物。これにはちょっとがっかりだった。天然温泉かもしれませんが、スーパー銭湯の方がまだいいですね。 さて、大会後の入浴はどこにしようかと悩んでいたところ、前出の「十和田ふるさとセンター」に、「ハイウェイ日帰り温泉天国サービスキャンペーン」という冊子がある。見ると秋田県北地域の日帰り入浴料が割引になるらしい。NEXCO東日本のキャンペーンのようだ。まさに「渡りに船!」 こうして大会後に立ち寄ったのは「とわだこ賑山亭(しんざんてい)」。 こちらは昨日の国民宿舎と違いいわゆる民間のホテル。昨日のような小浴場(?)ではあるまい。また、この冊子の「日帰り入浴券」を渡せば、入浴料が500円→400円となる。 ちょうど行ったのが午後1時過ぎで、ホテルとしては一番閑散としている時間帯。 フロントで呼んでもなかなか誰も現れないのでちょっと焦ったが、入ってみると浴場としては決して広くはないものの、昨日の国民宿舎十和田湖温泉よりもはるかに素晴らしい天然温泉&浴場であった。
訪れてみたかった小坂町 先ほども述べたが、十和田湖の西側半分は秋田県。今回の大会の主たる会場は秋田県鹿角郡小坂町であるが、小坂町の市街地は、十和田湖畔の会場から樹海ラインを下ること25kmほど南西にある。 小坂町は今でこそ静かな町であるが、19世紀初頭に小坂鉱山が発見され、当時は金・銀の採掘で栄えた町である。明治時代には銅・亜鉛の採掘も行なわれ、小坂鉱山事務所を始めとして多数の近代建築が建てられ、町は大いに栄えた。第2次世界大戦後は、鉱山資源が枯渇し、町は一頃よりも衰退し現在に至っている。まさに栄枯盛衰を体感した町である。当時は人口が3万人ともあった町であったが、現在は人口6,000人強の小さな町である。 9年前に青森旅行で、小坂ICから十和田湖に行く際にこの町を通過したが、バスから見る車窓に「多数の幟」が見えた。まるで相撲のどこかの場所のようである。 もちろん下調べもしたが、小坂町がこのような歴史のある町であるということを知ったのは最近であった。 今回訪れてみたのは、旧小坂鉱山事務所。 時間の関係でここしか訪れることができなかったが、当時の洋風建築がそのまま残されているのは素晴らしいですね。
こちらは残念ながら時間切れで、内部の鑑賞はできなかったが、小坂鉱山の厚生施設として誕生したという経緯がある。 康楽館の柿落し(こけらおとし)は明治43年8月16日。大阪歌舞伎の尾上松鶴一座により幕を開けて以来、歌舞伎や新劇、映画など盛んに上演・上映してきたが、建物の老朽化と機能の低下、さらにカラーテレビの普及により昭和45年に一般の興行は中止され、ほとんど使用されなくなったが、昭和61年、小坂町の人々の情熱により見事に甦り、現存する日本最古の芝居小屋として新たな歴史を刻み始めたという歴史がある。もちろん、現存する日本最古の芝居小屋である。 4月から11月末までほぼ毎日、人口わずか6,000人強の街で常設講演を続けているのはすごいことであると感心するばかりだった。
今日の戦利品
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