第43回 奥久慈湯の里大子マラソン大会 参戦記 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関東甲信越をぐるりと一周 今回の遠征先は茨城県。北関東に位置する県だ。 県南には土浦市、つくば市。県央には県庁所在地の水戸市がどっかり構えている。 これまで茨城県には、友人のSくんが筑波大学に通っていたこともあり、何度か遊びに行ったことがあるほか、1985年の通称”つくば博”にも一度だけであるが見学行った。そのほかは、トライアスロンで2度ほど遠征しているが、この2回はいずれも県の南東の潮来市、神栖市。潮来市も神栖市も利根川を挟んで対岸は千葉県。私の中では千葉県銚子市を目指して行って、利根川をちょこっと渡るという印象。 しかし今回は堂々と茨城県を南から北へ縦断したような形で大子町へ到着した。 とはいえ、今回はどういう交通手段で現地まで行くのか決めあぐねていた。福島県寄りなので、@得意の日本海廻りの高速道で現地へ向かうのか、A順当に東名で東京を経由して向かうのか、B鉄道を使って現地へ乗り込むのか。 いずれも一長一短ありで、出発する数日前まで方法を決めあぐねていたが、結局Aを選択したのであるが、これは失敗だった。 自宅を7時前に出発し、東名高速で東京ICまでは4時間弱で到着。ここまでは順調だったのであるが、用賀から先の首都高速が、まったくと言っていいほど動かなかった。土曜日の午前中はいつもこんな調子?1時間程度の遅れは覚悟したものの途中の箱崎で限界に達し、首都高速を諦め一般道から常磐自動車道へ向かうことにした。 下界に降りるとスイスイ走る。やはり、首都高速は私のようなお上りさんの集まり。降りるのが怖くてそのまま渋滞を我慢しているのだろうか。 首都高速を途中で降りたせいで、東名高速と常磐道の乗り継ぎ割引が効かなくなり、また首都高速を乗り直したせいで費用的にも高く付いてしまった。ああ、これなら精神衛生上渋滞のない、日本海廻りにすれば良かった・・・。帰りはもちろん日本海廻りで。おかげでいろんな景色を見ることが出来た。(最初からこうすれば良かったのであるが・・・)
大子町とは 冒頭で少し述べたように、大子町(「だいごまち」と読みます)は茨城県のほぼ最北端に位置する町で、人口は約2万人。福島県に接し、また日本三大瀑の一つ「袋田の滝」がある町で知られている(私は今回初めて知りましたが・・・)。 この町のおもな産業は農業と観光。 物産としては、リンゴ、こんにゃく、軍鶏(しゃも)、ゆば、そば、チーズケーキなどがあり、今回おみやげにチーズケーキを購入。家族には大変好評だった。 観光としては、大子温泉、袋田温泉をはじめとする温泉郷のほか、先ほど紹介した「袋田の滝」、茨城県最高峰の八溝山(やみぞさん)やキャンプ場など町全体が「緑のテーマパーク」という感じで茨城県内では観光地という地位を確立している。 今回訪れたのはもちろん初めてでしたが、とんでもない田舎と思いきやそんなこともなく、意外と住みやすい街かもしれないという印象はありました。ただし、高速道路までのアクセスが今ひとつなので、常磐道にしても東北道にしても最寄りのICまで1時間程度かかるので、もう少し高規格道路があると観光客の需要も伸びるのではないかと感じました。、 コース紹介 前日に会場に到着するのが遅れたので、自分の走る10kmのコースしかコースの下見が出来ませんでした。 この大会のコースの特徴は、スタート場所がメイン会場でありゴールの大子広域公園から1kmほど離れた県道160号線の道路になります。そのため、スタート時間までに会場から坂を下っていかなければなりません。スタート時間の15分ほど前には、会場を出発してスタート地点に向かいましょう。 また、スタートしてしばらくは平坦ですが、600mほどで右折して2.5kmくらいまでは山道を上り下りします。2.5kmあたりで左折、折り返しの4.5kmくらいまでは緩い登り坂。そのあとスタート場所まで再び戻ってきますが、その後ゴールの大子広域公園までの最後の1kmの地獄のような坂道はこの大会の名物です。2km、5km、10km、ハーフマラソンの全ての種目の選手がこの坂を苦しみながら登っていきます。
早朝の会場準備の裏舞台 今回は久しぶりに車中泊をした。昨年の11月の群馬遠征以来となる。 大子町は、名古屋より気温が3〜5度ほど低いので、敷き布団2枚、敷き毛布1枚、掛け毛布3枚、掛け布団1枚を準備し車載して臨んだが、今回は対応策としては100点だったと思う。何しろ温かい。寝始めたときは「これほどまでしなくてもよかったのかなあ・・」と思いきや、明け方にはかなり冷え込み布団や毛布の威力が十二分に発揮でされた。わが愛車は、キャンピングカーではなく、2006年式のただのステップワゴン。工夫すれば、それなりの快適さは得られることがわかった。来週も是非続けてみたい。 ところで今回夜間車を停めておいた大子広域公園は、夜間20時〜翌朝8時30分は閉鎖される。ところが大会当日の朝は、意外や意外に午前6時過ぎには開場になったようであり、一気に車がなだれ込んできた。選手がそんなに早く来るの?と思いきや、大半は会場警備にやとわれているガードマンや、受付などの係の人。少しばかりであるがこんな早い時間から来た選手にはちょっと驚きだった。 また受付は午前8時からとプログラムには書かれていたが、実際には午前7時30分くらいからOKで早々とはじめられた。 午前6時頃から大会が息づきはじめているのを見るのは意外に面白い。出店ブースも午前7時過ぎくらいからそれぞれ準備が始まったが、準備の段階を見るのは初めてだった。
レース
最初の種目であるハーフマラソンのスタート時間は10時30分。10kmは10時40分と10時前後が平均的なスタート時間の大会と比べるとスター時間はやや遅い。遠方の日帰り参加者を増やすための苦肉の策だろうか、それとも大会事務局が朝ゆっくりしたいせいだろうか? 集合場所には既に多くの参加者が集まっている。 ハーフマラソンのスタートを見送りった10km部門の選手たちはスタート場所へゆっくり移動していく。 しかしながら、メイン会場からスタート場所が離れているせいだろう。ハーフマラソンの部が10時30分にスタートしてからも数分遅刻をし、スタートしていく選手が5〜6人いた。当然のことながら完走目的の人たち。遅刻した分のタイム加算についてだれも異論は挟まないであろう。 さて、今回から新たな種目として追加になった10km部門の参加者は400人弱。決して大人数ではない。今回は早めに集合場所に行ったので、ほぼ最前列に並ぶことができた。 45〜54歳の勝負をする同じ年代の選手たちは「2300番台」のナンバーカードを付けている。地方遠征なので、この地方の強者は名簿を見てもわからない(わかったとしても対処の仕方がわからない)ので、受付でもらったプログラムで確認したのは参加人数程度だった。 そこの大会に行ってもそうであるが、そもそも勝負をしようとする選手は、スタートの時から前に来ている。プログラムを見てどうこうしなくても、だいたいは雰囲気でわかる。 今回はざっとみたところ、同年代の選手で2300番台の選手が5人ほどスタート位置の前の方に並んでいる。これらの選手は当然のことながら要注意だ。 10時40分。定刻に10km部門はスタートした。 今回レースは端から見ていると動きの大きく変わる面白いレースだったに違いない。というのもスタートしてから、45〜54歳の部の先頭を走る選手がめまぐるしく変わったのだった。10km程度の距離でこういうことはは珍しい。 まず最初は、スタートしてから500mほどは千葉市消防局のユニフォームを着た選手が飛び出す、あっという間に行ってしまったので「やられたか?」と思いきや、しばらくすると集団に吸収される。ホッとするが、次に「美野里クラブ」と書かれたオレンジ色のユニフォームの大柄な選手が先頭を走る(もちろん44歳以下の選手がその前に5〜6人いるが・・・)。彼は、スタート時には中央の最前列に並んでいた選手だ。背が大きく、ユニフォームが派手なので目立っている。
次に前に出たのが、非常に小柄な選手。白いユニフォームであるが、ピッチは速い。彼は、先ほどのオレンジ色のユニフォームの選手のすぐ後ろにいて、彼と話をしていた選手だ。 上り下りの続く序盤、当初想定していたよりも速い展開になったが、ここは何が何でもついていかなければならない。 ところが坂を下りだした2.2〜2.3km地点くらいから、後方にいた黒いユニフォームの選手が前に出て少しずつペース上げ出す。この選手は、スタート時には私の左後ろにいた選手だ。 緩い上り坂になると、私と白いユニフォームを着た小柄な選手が遅れ出す。4km過ぎの折り返し地点までに黒いユニフォームの選手とどんどん差が開いていく。今日は、どうも体調が今ひとつのようだ。スピードの割には心拍数が上がりすぎている感じがする。 折り返し、5kmあたりを過ぎたところで地元茨城県の実業団企業の日立製作所の「北島弘美」さんに抜かれる。実業団選手とはいえ、女性に抜かれるのはいくつになっても気持ちがよくない。 ついていこうと思ったが、「まだ全体の半分。後半もアップダウンがあるのでここは無理をしないでおこう」と思ったところ、私と併走していた前出の小柄な白いユニフォームの選手がついていく。どうしようか少々迷ったが、今日の体調を考えるとこれ以上ペースを上げるのは得策では無いと判断したので、ペースを維持することにした。こうなると国盗りどころでは無い。前に二人の同年代の選手を行かせてしまっている。 黒のユニフォーム小を着た同年代のトップの選手とはどんどん差が開くどころか、彼は前を走る44歳以下の選手たちを徐々に抜き出しどんどん前に出て行く。完全にお手上げ状態。 二番目の白いユニフォームを着た小柄な選手は、日立製作所の北島さんに登り坂で離されはじめているのが後方から見える。ただし極端にペースが下がるわけでもなく、私との差も少しずつであるが開く一方。 後半の5kmは順位が入れ替わることもなく、そのままの順番でゴール。こうして茨城県の国盗りは失敗となった。 この大会がリターンマッチになるかどうかはわからないが、茨城県には再びやってこなければならなくなった。それにしても最後の1kmの坂は地獄のようにきつかった・・・。
阿久津浩三さん
阿久津浩三さんのことを知らない方も多くいると思うので少し紹介しておく。 ウイキペディアで調べたところ、昭和35年11月生まれ。私より2つ年上になる。 経歴としては、日立工業専修学校→日立製作所。 日立時代は目立った実績はない。限界を感じていたところに、知り合いの指導者から地元に戻ってくることを勧められ、病院職員として勤務しながらトレーニングを続けた。 昭和60年のアジア陸上競技選手権大会(ジャカルタ)では5000mで優勝。昭和62年の日本選手権10000mに優勝し、同年の世界陸上競技選手権大会(ローマ)の代表。昭和63年の東京国際陸上10000mでは27分46秒16の自己ベストで五輪標準記録を突破、ソウルオリンピックの代表に。オリンピック本番では決勝に進出し、出場した日本人では最高の14位(28分09秒70)であった。平成3年の福岡国際マラソンでは2時間11分31秒の記録で6位に入賞している。 なお、阿久津さんの10000mの記録(右表)は、大会当日現在(平成22年3月14日)いまだ日本歴代第12位として残っている。 こんなすごい選手が身近にいるのに誰も近寄って来ない。みんな阿久津さんのことを知らないのか?それともこの地方では阿久津さんが市民レースによく走っているので珍しくないのか? あれだけの活躍があったにもかかわらず、指導者などの道を選ばずにいまだに市民ランナーとして走っているというのは、やはり走ることが好きなんだろう。阿久津さんはスターというよりも、身近にどこにでもいる小柄なおじさんという感じだった。 今回5kmほどでしたが、同じ空間を走ったことはよき思い出ですね。 袋田の滝 せっかく茨城まで行ったのだから、少しでも観光をしたいところであるが、時間の関係で有名な「袋田の滝」だけを見てきた。 袋田の滝は、日本三名瀑のひとつと言われている。高さ120m・幅73mの大きさを誇っている。大岸壁を四段に流れることから、別名「四度の滝」とも呼ばれ、その昔、西行法師が訪れた際、「四季に一度ずつ来てみなければ本当の良さはわからない」と絶賛したことからとも言われているそうである。 袋田の土産物屋を抜けて川の上流に上がっていくと、観瀑施設(袋田の滝トンネル)利用料と称し大人は300円払う。ここからトンネルを200mほど歩いていくのであるが、第1観瀑台から見る袋田の滝の眺めはそのスケールの大きさに圧倒される。なぜ、この場所にこんな滝が突如現れるのだろうかと頭の中は「???」。また、エレベータで43mほど登っていくと、平成20年9月に新たに完成した第2観瀑台に出る。こちらは袋田の滝を上から眺めるような施設になるが、スケールを体感するのであれば第1観瀑台のがいいと思う。
本日の戦利品
|