第26回カッパハーフマラソン 参戦記 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石巻市、女川町、南三陸町
当初は、仙台から直接路線バスに乗り替え、大会会場の登米市に行く計画であったが、東日本大震災から8ヶ月が経過し、被災地を訪れて何か自分に出来ることはないか考えるために、仙台でレンタカーを借り、被災地の街を訪れてから登米市に行くことにした。 レンタカーでまわるルートとしては、南から石巻市、南三陸町、気仙沼市の順を考えていたが、石巻市を訪れそこで見た光景だけでも余りの惨状であったため、予定を変更し石巻市、女川町、南三陸町を訪れ、時間の関係で気仙沼市まで行くのは中止とした。 今回、被災地の町々を廻って感じたことは、内陸部の津波の無かったところでは私が見た限り、大きな被害はあまり目立たなかったものの、海岸に近いところにやってくると津波にやられた建物があちこちに散らばっていた。家屋などの形があるのはまだいい方で、基礎だけ残して跡形もないものも無数に見られた。
道路はうねり、路肩は崩れ落ち、港は沈下し護岸は崩れ、瓦礫や潰れた自動車は山のように積み上げられ、まさに廃墟とはこのことか。 大地震がやってくるまでは、田舎ながらも楽しく過ごしていただろうこの地の人たちの幸せを、津波が一気に飲み込んでいった。 海ではカモメやウミネコが何事もなかったようにプカプカ遊んでいる。「自分達の巣は壊れたらまた作ればいいんだよ。人間たちは丈夫なものを作ったと思っているかもしれないけれど、自然の前ではこんなものさ」とあざ笑っているように…。 被災地のシンボルとなった南三陸町役場や公立志津川病院も見てきた。無残。本当に無惨。なすすべがないとはこのことか…。南三陸町役場の防災総合庁舎には祭壇があり、線香が焚かれていたのでお参りをしてきた。本当にご冥福を祈るばかりだ。 被災したガソリンスタンドが3軒ほど営業していたものの、この街が以前のような街に本当に戻ることが出来るのであろうか。 また、たまたま通り掛かった石巻市の道路から見える空地は、火葬が出来ずに、土葬されていた遺体の安置所だった(地元紙・河北新報の情報によると、旧「上釜ふれあい広場」というところらしい)。テレビなどでは見たことがあったが、実物をみると、同じ日本の中での信じられない光景であり、信じがたい事実であった。 今日は被災地のどこに行ってもため息しかでなかった。よそ者の自分でさえショッキングな光景だから、被災地の人たちの心情は凄まじいこと極まりないことだろう。 今日一日での走行距離は200km弱。今日一番驚いたのは、この津波の被害がとても広範囲なこと。宮城県の北側(それも気仙沼市は見ていない)しか見ていないにもかかわらず、これだけの大被害。岩手県や福島県の海岸線は全く見ていない。台風などの自然災害はとても怖いものであるが、津波は最大級の驚異。亡くなった人のご冥福を祈るとともに、これから自分達は何をすべきか本当に考えさせられた。被災地のレポートは、また別途します。
登米市(とめし)登米町(とよままち) 今回訪れた宮城県登米市(とめし)は、人口約8万3,000人。宮城県の北東部に位置する。 平成17年4月に旧登米郡8町(迫町、登米町、南方町、東和町、中田町、豊里町、米山町、石越町)と本吉郡津山町が合併して現在に至っている。 このうち今回の大会会場となったのは、旧登米郡登米町(とよままち)。現在の登米市登米町である。 私も当初混乱したが、市の名前は「登米市」と書いて「とめし」と読み、町の名前「登米町」は「とよままち」と読むそうだ。 調べたところ「とよま」の語源としては、続日本紀に遠山村と記され、後の登米村と認められる史実があることから、遠山が「とよま」の語源とされているという。 とよまの原音はアイヌ語の「トイオマ(食べられる土のあるところの意)」であり、登米町一帯はアイヌが食べたと思われるアルカリ性の白い岩石が多く発掘されている。 また、明治初めの郡区町村編制のときに簡易な読み方として「とめ」が郡名に採用されたため、郡名は「とめ」、町名は「とよま」と読むようになったとある。 この地は古くから宮城県北部の中心地だった。 仙台藩時代は城下町として栄え、明治の一時期は水沢県庁が置かれていたこともある。この登米が栄えていたのか?その理由は、北上川を利用した水運にあった。昭和初期まで蒸気船が北上川をひっきりなしに行き交い、荷物は東京まで運ばれていた。当時は陸路よりも水上交通が最速の手段だったという。 現在は静かな街になったものの、当時の繁栄ぶりを偲ばせる建築物がたくさんある。 登米町は、「みやぎの明治村」をキャッチフレーズに、教育資料館(旧登米高等尋常小学校校舎・重要文化財)、警察資料館(旧登米警察署庁舎・宮城県指定有形文化財)、登米懐古館、水沢県庁記念館(旧水沢県庁庁舎)、伝統芸能伝承館 森舞台、武家屋敷 春蘭亭、登米歴史民俗資料館などを観光資源として多くの観光客が訪れている。 今回大会終了後に、少しの時間であるがこれらの施設のいくつかを散策したが、愛知県にある明治村と違い、歴史上の施設をその場でそのまま保存している。岐阜県恵那市にある大正村のような保存の仕方だ。この地のこれだけ多くの施設が保存されていることから、かつては行政、文化の中心地であったことが大変よくうかがえた。
油麩丼とはっと汁 どこの地方にも郷土料理があるが、この地方の郷土料理の代表的なものが「はっと汁」と「油麩丼」だという。共に初めて聞く名前。会場そばに、「つか勇」さんという食堂があったので、大会前日の夕食にと食べに出かけた。 この「つか勇」さんであるが、大正11年に塚本商店として始めてもうすぐ創業から90年となる老舗食堂。店内にはB−1グランプリに出品の大きなポスターも貼られていた。 午後の7時頃店にはいるが、店内には客は私一人。メニューを見て、はっと汁と油麩丼の両方を頼みたいが、その量が気になる。食べ過ぎて、明日のレースに差し支えては意味がない。 店のオバチャンに「このセットメニューの量はどのくらいですか?」と尋ねると、何と実物の椀を持ってきて説明してくれるではないか。ならば、このメニューの最初にある「Aセット(1,000円)をお願いします」と注文する。
ここで「油麩丼」と「はっと汁」を紹介する。 まずは「油麩丼」の「油麩」について。 登米地方では昔、お盆に精進料理を食す風習があった。その精進料理でタンパク源としてグルテンを油で揚げ、こくをもたせた油麩が誕生したといわれている。なお、登米では油麩と呼んでいるが、その他では仙台麩と呼んでいるらしい。 なお油麩丼は、肉を食べられない人のためにカツ丼あるいは親子丼の代わりとして提供し始めたのが最初とされ、その後は登米町の一般家庭にも浸透していった。 カツ丼のカツの代わりに油麩を使うところ以外は基本的にカツ丼と作り方が同じであるが、油麩がカツより水分を多く吸収するため、だし汁を多めに使用する必要があるという。 次に「はっと汁」。 「はっと」とは、主に東北地方に伝わる郷土料理。 小麦粉に水を加えて良く練り、熟成させて薄く延ばした生地を茹で上げる小麦粉料理の一種。 荏胡麻や大豆、枝豆などでつくった餡を餅のように絡めた食べ方や、各地方独自の野菜や肉を入れたけんちん汁風にうどんの代用として加えた食べ方などがある。 なまえの「はっと」であるが、あまりの美味しさに何杯もおかわりしてしまうために、殿様が御法度にしたという説などがあるが定かではない。 「はっと汁」であるが、醤油仕立ての汁物に地域ならではの食材とはっとを加えた料理で、その土地毎に調理法が異なる。この登米町では、具に特産の油麩を入れている。 実際に見ての通り、油麩丼もはっと汁もどちらも名物の油麩が輪切りにされて入っている。食べたインパクトは薄いものの、家庭料理として頻度高く食べるには美味しい料理には間違いないと感じた。 なお、「油麩丼の会」なるサイトもあるので、詳しくはそちらをご覧下さい。
コース紹介(コースガイド) → こちらを参照して下さい。 カッパハーフマラソン この大会は、珍しく地名が付いていない大会である。名前を聞いただけで、どこで開催されているかフツーはわからない。 大会要項を見ると、この大会は昭和61年11月に「第1回みやぎ北上連邦カッパマラソン」として開催されている。その後、第10回大会(平成7年)から大会名に「ハーフマラソン」が加わり、り第19回大会(平成16年)まで続いた。 平成17年に、このみやぎ北上連邦を構成している「登米町、中田町、東和町、津山町」の4町を含む9町が合併して登米市になったため、第20回大会は、「祝登米市誕生第20回記念カッパハーフマラソンとなり、翌年からは「第○○回カッパハーフマラソン」となり、現在に至っている。 もともとは「みやぎ北上連邦」の大会であって、そこのマスコットが伝説の生き物のカッパなのだ。会場ではMCがそのあたりの経緯を説明していたようであるが、遠方からやってくる私のようなものは知らないので、大会要項にも少しばかりは掲載しておいた方が良さそうだ。 復調気味のレース 大会前日の26日(土)、仙台では初氷で宮城県内は日中も気温が上がらず寒い一日だった。 大会前日に試走をした時は風も強く、「明日もこんな感じだと大変だなあ」と思っていたが、大会当日の早朝は冷え込んだものの、この日は風もほとんど無く、走るにはこの上ないコンディションに変わってくれた。 この大会のハーフマラソンのコースは微妙にアップダウンがあるものの、タイムに大きく影響するようなものではない。川沿いを走るという意味では、地元・愛知県の犬山ハーフマラソンのコースに近いかもしれない。 今回のカッパハーフマラソンのハーフと10kmのコースは日本陸連の公認コースでもあり、陸連登録者ならば記録も公認してもらえるため、参加標準記録が必要な大会への参加資格も狙える。今回は宮城県の国盗りが目的なので一般男子45才以上でエントリーしたのだった。
9時30分にピストルがなり、1,000人弱の隊が動き出す。私の目の前にいるランナーは陸連登録者の選手ばかりであるが、、その後方の選手たちの動きは鈍く、モタモタしている感じ。登録者といえども記録を狙う気配のない人たちだ。隊の中央から抜くのは困難なので、右側から少しずつ抜いていく。抜きながら前方を確認し、自分と同じカテゴリーの人がいないかチェックする。 1kmほど走ると選手もバラけ走りやすくなってきた。私から見て30mほど前に一人、自分と同じカテゴリーの選手がいる(こういうときに視力が良いと助かる)。この選手が最初だけ飛ばしているのか、それとも本当に速い選手なのか見極めなければならない。今日の目的は宮城県の国盗りではあるものの、自分より相当速い選手に無理に付いていって、その結果オーバーペースになってまともなタイムすら出ずにボロ負けするわけにはいかない。 ハーフマラソンのコースは、スタートしてから少し北上し、ループ上に回り、2.5kmほどでいったんスタート地点に戻り、それから北上川を右手に見ながら遡るというコースだ。前半の2.5kmは距離調整といった感もある。
5km付近では、自分と同じようなペースで走っていた選手が二人いたが、彼らはペースを少しずつ上げて、徐々に自分から離れていく。いや、むしろ自分のペースが単に落ちただけかもしれない。代わって後方から二人ほどの選手が追い上げて追い付いてくる。結果からすれば、今日はこの二人の選手とゴール近くまで並走することになったのであった。 10kmの通過タイムは36分31秒。この5kmは18分30秒とほぼ予定通り。11.7〜8km辺りで折り返すが、数えたところ全体で24番目。前を走る同じカテゴリーの選手とはかなり離れてしまい、今日の国盗りは難しくなってきたので、タイムだけはキープしようと心がけた。
17kmを過ぎると5kmコースの選手が折り返し地点をUターンし、ハーフマラソンの選手と同じようにゴールを目指している。こちらもややペースが落ち気味だったので、ちょうど彼らが自分のペースメーカとなり、落ちかけていたペースを上げるのに役立った(感謝!)。 20kmの通過は1時間13分53秒(この大会では「20km地点」の距離表示がないが、前日の試走で残り1km地点から逆算して推定した場所)。この5kmは18分44秒。ペースが少しずつ落ち気味ではあるが、残りわずかに1km。これからが最後の踏ん張りどころだ。 並走していた選手の一人は既に脱落。私と同じカテゴリーの選手とラスト1kmで2位争うことになった。このような展開になればロングスパートしようと決めていたので、残り1kmから最後の力を出してペースアップをする。久しぶりにガンガン走った。最後だけは…。 昨日の夕方、ひっそりとしていた登米市登米町内も、ゴールが近くなるにつれ多くの応援の人がいる。選手の家族やチームメイトだろう。ガソリンスタンドのある交差点を右折するとゴールが見えてくる。1時間17分49秒。宮城県の国盗りは達成できなかったものの、同タイムながら併走していた選手よりわずかに先着し、何とか一般男子45才以上の2位だけは確保した。(1位は1時間15分54秒) 今回は宮城県の国盗りは達成できなかったが、タイム的には当初の目標を少し上回り、まずまず練習の成果がでて調子が上向きになってきたことを確認できる大会であった。
熱気のあった大会 人口約8万3,000人の登米市。大会会場のある旧登米町は、合併前の人口が約5,700人の小さな街だ。 しかしながら、今日のこの大会にはエントリーした選手が約2,700人。また、この会場でカッパハーフマラソンに並行して行われていた「とよま産業まつり」というイベントがあったが、これを目当てに会場にやってきた観光客を含めると、この会場にいた人口は明らかに町の人口以上の人だったのではないか。 海に面していないので、この旧登米町は東日本大震災時に津波の被害には受けていないものの、町内では震度6強の揺れを観測し、観光施設も多く被害を受けている。開会式で選手宣誓をした女性も、今回の震災の被災者の一人だという。 個人的には東北の人は寡黙で我慢強いという印象がある。 しかしながら、この大会では、日頃の我慢を発散するように明るく走り、また会場も驚くほどみなさんが明るかった。仮設住宅で生活している人にとっては、まだまだ走っている場合じゃないという方も多いのであろうが、「いつまでも沈んでいても仕方がない。」とか「俺の家も流されたけど、何とかなるさ」というような会話が会場のあちこちで聞こえていた。何とバイタリティーのあることだろう! 大会終了後には、私もこの「とよま産業まつり」に参加させてもらったが、本当に賑やかで楽しかった。 特に、「カッパ巻き100mに挑戦」は面白かった。MCの号令にあわせてカッパ巻きを作るというもの。作ってからは10秒ほど一斉に持ち上げて、その成功を確認するというイベントだ。終了後には、そのカッパ巻きが切られて見物客にも振る舞われ、私も一部をいただく。 シソ巻きのおにぎりも併せていただいたが、目の前のこういうイベントで作られたばかりのできたてのホヤホヤの成果物は最高だった。 来年再び登米にやってくる保証はないが、いつかはまた出場した大会であり、とよま産業まつりは楽しみたいイベントであると思う。東北のみなさん、頑張って下さい!
本日の戦利品
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