第60回記念別府大分毎日マラソン大会 欠場記 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
●費用
●上位成績及び愛知県勢の成績(エントリーリストはこちら、全成績はこちら)
欠場まで かつての参加資格が2時間40分時代には、大会要項が発表されるのが11月下旬で申し込み〆切は正月明けだった。200〜300人くらいしか申し込まない(申し込めない?)頃は、事務局の作業も少なくこれでよかったのであろうが、第60回記念のおかげかそれとも市民マラソン化への第一歩かわからないが、今大会は大きく門戸を広げているために大会要項の発表そしてエントリーの時期も一ヶ月ほど早まっている。 そして今回、この大会にエントリーしたのは10月25日。 今回で12回目のエントリーとなる。今年は60回の記念大会であるが、特段、力むこともなく大会に臨もうと考えていた。 しかしながら今年はなぜかいろいろと忙しい。自分の練習に充てる時間が著しく減っていた。別大に対しての準備がやや遅れていたところに、12月の中学校の保護者会で出場をあきらめることになった。決定的な出来事だった(→詳細はこちら)。 家族のことはやはり優先せざるを得ない。長い人生、こういうことがあるのは当然だ。 今回に限っていえば、欠場に対しての未練は全くなかった。 第1回大会と池中康夫 今回で60回を迎えるこの別大マラソン。第1回大会は昭和27年1月20日に開催されている。 当時は、別府駅前をスタートし大分市の白木を折り返す35kmのコースで開催されている。ちなみに当時の名称は現在と違い「別府マラソン」だった。 一昨年までの大分市営陸上競技場を出発し、別府観光港を折り返すコースであれば「大分→別府」なので別大マラソンではなく「大別マラソン」というべきだろうが、第1回のコースが「別府→大分」だったこともあり現在までのように「別大マラソン」と呼ばれるようになったという。 どうでもいいことであるが、別府起点による「別大マラソン」呼称説は、個人的には怪しいと思う。むしろ単に「大別」よりも「別大」の方が語呂がいいだけだったのではないかと思う。 コースの多くを走る国道10号線は、通称「別大国道」と呼ばれているし、この地にある不動産屋で「別大興産」というのもある。「大別○○」というものは、聞いたことがない。 話を戻そう。 この記念すべき第1回大会の優勝者は浜村秀雄(秋穂陸協→協和発酵、丸久、ユニクロ)だ。当時無名選手だった浜村は、この第1回別府マラソンでの優勝を皮切りに、昭和28年の朝日マラソン(現福岡国際マラソン)、昭和29年の毎日マラソン(現びわ湖毎日マラソン)で優勝し、一気にその名を轟かせる。 その後の昭和30年のボストンマラソンでは当時世界歴代2位の2時間18分22秒を記録し優勝。昭和31年のメルボルン五輪にも出場(16位)している。 さて、この記念すべき第1回大会が行われた経緯は、現在この大会の大分県勢の最上位者に与えられている「池中杯」の名前となっている”池中康夫”を抜きには語られない。池中康夫とは、大分県中津市出身の戦前のマラソン選手のことだ。 池中康夫は昭和11年4月、当時東洋大学に所属していた頃、東京・明治神宮外苑競技場を発着点として開催されたベルリン五輪マラソン代表候補挑戦競技会において、2時間26分44秒の当時の世界最高記録で優勝しベルリン五輪代表候補とされた。 しかし、弟が大病に冒され、池中が大量の献血をしなければならなくなり、昭和11年5月に行われたベルリン五輪最終選考会では途中棄権となった。 また、ベルリン五輪の次に開催されることになった昭和15年の東京五輪選考会では、危なげない走りで再度マラソン代表の座を射止めたが、日中戦争の影響で東京五輪が開催権返上、そして代替開催となるはずだったヘルシンキ五輪も第二次世界大戦の勃発により中止となり、オリンピックには出場できないまま、現役を引退した「幻の五輪代表」でもある。 なお、箱根駅伝においても東洋大学初登場から合計6回出場を果たしている。山登りの5区で区間賞を獲得し、同チームの黎明期の名ランナーとして知られている。 この池中康夫が戦後日本陸連コーチとなり、昭和27年、13人のヘルシンキ五輪候補選手が別府で合宿を行っていた。この合宿を機に「九州に定着したマラソン大会を持ちたい」と池中は考えていたようである。連日のトレーニングでフルマラソンは難しいだろうと考え、第1回は35kmの記録会として合宿の最終日に開催されている。その時の優勝者が浜村秀雄だったのである。 幾多の名勝負と高速コース 私の手元には「別府大分毎日マラソン50年史」がある。これは、10年前の第50回大会後に発売されたものだ。別大マラソンの歴史を知るには、この本が一番だ。 またこの本には第1回から第50回までの完走したランナーの記録も掲載されている。 私も途中棄権した第45回大会を除き、第46回(2時間36分58秒/57位)、第47回(2時間32分54秒/81位)、第49回(2時間30分46秒=自己ベスト/61位)、第50回(2時間44分40秒/251位)の4回ほどこの本の中に名前を連ねている。歴史あるこの大会の記念誌に永久に名前が刻まれているのは大変嬉しいことでもある。
近年の別大マラソンは、市民マラソン大会の台頭やオリンピック選考会から外れるなどしているために、その地位はやや低下気味ではあるものの、60回を数えるこの大会抜きには日本のマラソンの歴史を語ることは出来ない。過去には、名勝負、好記録続出で世界から注目を浴びることも多かった。 第12回大会(昭和38年)では、寺澤徹(クラレ)が2時間15分15秒8の当時世界最高記録で優勝。寺澤は第12回から第15回まで何と4連覇を果たす。メキシコ五輪のマラソン銀メダリスト君原健二(新日鐵)も第16回、第19回、第20回、第22回と4度の優勝。 第27回大会(昭和53年)では宗茂(旭化成)が2時間9分5秒6で優勝。この記録は日本人で初の2時間10分を切る記録だった。 第34回大会8昭和60年)は、世界の谷口こと谷口浩美(旭化成)のデビュー戦。2時間13分16秒で見事に優勝を飾っている。 第40回大会(平成3年)では、初マラソンの森下広一(旭化成)と中山竹通(ダイエー)の新旧交代劇。肩を叩かれ「ここで行け」というシーンは昨日のことのようだ。 第43回大会は、先頭を走る2選手が折り返し地点を間違え失格となる珍事。 私が初出場だった第45回(平成8年)の優勝はゲルト・タイス(南アフリカ)で2時間08分30秒。この記録は現在までのこの大会記録。 第47回大会(平成10年)では、清水昭(杵築東芝)が21歳の最年少サブテン(2時間9分11秒)ランナーとなり優勝など本当に数々の歴史を刻んできている。 ランナーの広場 大会の裏側 懇親会 |