第24回おたる運河ロードレース大会 参戦記 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スカイマーク 今日は中部国際空港を午前7時20分に発つ新千歳空港行きのスカイマーク761便で北海道に向かう。搭乗手続きを出発20分前までに行わなければならないので、名鉄・中部国際空港駅には、少なくとも午前6時50分頃には到着していないといけない。逆算するとわが家を出発するのが午前5時20分。名古屋市内でも、限られた人しかこの便に乗れないかもしれない。 さて初めて利用するスカイマーク。大手旅行代理店のエイチ・アイ・エス社長・澤田秀雄らの出資により平成8年11月に設立された。いわゆる規制緩和による新規参入航空会社の第一号だ。当時は「スカイマークエアライン」という社名だったが、平成18年10月より略称で使用していた「スカイマーク」に社名変更し現在に至っている。 新聞でも「機内での苦情は一切受け付けません」とPRしていたせいか、新千歳空港に到着するまでの間、機内では大きなトラブルはなかったようだ。 キャビンアテンダントも上着は会社指定の黒(紺?)のポロシャツ(袖にスカイマークのロゴ有り)、下は黒のスカート、黒のストッキング、黒のヒール。ポロシャツを除けば、他社のキャビンアテンダントと何ら変わらないではないか。 この便の乗客たちは、大きなサービスを望んでいないように見えるし、望まないからスカイマークを選んだかもしれない。チェックイン、荷物の預け入れ、約1時間半のフライトといずれも簡素なものであったが、価格を考えればこういう商売でもよいだろう。中部国際空港からは、那覇便も出ているので沖縄に行く際も利用してみようと思う。
小樽市
一番最初は大学生の時(昭和59年/1984年)。3年生の乗船実習において、大学校の練習船「こじま」で小樽港に入港している。今から28年前のことだ。 当時は、北海道にやってくることだけで嬉しく、小樽の街の散策よりも同期の連中と、夜札幌に出かけているので小樽そのものは自分の中では単なる寄港地だった。小樽港から小樽駅への坂道は記憶にあるが、あとのことはあまり覚えていない。 2回目は、平成13年(2001年)の9月3日。 この時は、子どもたちも未就学だったので、祖父母3人も連れて合計7人で北海道旅行にやってきている。ツアーバスでの立ち寄り場所の一つがこの小樽だった。小樽での滞在時間が3時間(フリータイム)ほどあったので、祖父母は石原裕次郎記念館へ、親子は小樽市総合博物館(当時は「小樽交通記念館」)へ出かけている。もちろん運河沿いでのショッピングも楽しんだが、最初に来たときとは大きく印象が異なり、小樽が偉大な観光地であることを知った。
そして4回目が今回。今回は小樽を目的地にやってきたのではあるが大会当日の天候が悪く、予定していた小樽市内の観光をキャンセル。まだまだ小樽市内を十分に堪能していないので、5回目は老後のために楽しみを取っておこう。
「ニッカウイスキー・余市蒸溜所」 一昨年、余市味覚マラソンにやって来た際に、時間の都合で見学できなかったのが「ニッカウイスキー・余市蒸溜所」。今回は飛行機の便も早く小樽での滞在時間に余裕があったので、心の奥にひかかっていたこのニッカウイスキー・余市蒸溜所の見学のために余市へ足をのばす。 余市は小樽からJRで30分弱。余市といえば、このニッカウイスキーの前身である「大日本果汁株式会社」からわかるように、この街は北海道有数の果物の産地である。梨、ぶどう、リンゴ、桃、イチゴ、さくらんぼ、プラム、ブルーベリー、ハスカップ、プルーン・・・と、私が一昨年参加した「余市味覚マラソン」のネーミングからわかるように相当な種類のフルーツの収穫ができる。そのため、「余市ワイン」のブランドとしてのワインもこの街から販売されている。ちなみにニッカウイスキーの「ニッカ」は、前身の大日本果汁社の略称「日果(にっか)」の片仮名書きが現在の社名となっている。 さて、このニッカウイスキー・余市蒸溜所。JR余市駅から徒歩で2分ほどのところにある。 レンガ造りの正門は、余市駅の正面から見通すことができる立派な洋風な建築物。平成17年12月10日にこの正門を始め9棟が国の登録有形文化財となっている。ここで働いている人は大変だろうが、こういう歴史的建築物は残しておかなければならない。
工場内の広さは約4万坪。建屋と建屋の間隔も広くゆったりとした感じがいい。工場内の建屋の多くは、ウィスキーはの貯蔵庫。騒音もなく所内は静けさが漂う。 今回はちょうど正午からのガイドツアーに間に合ったので、迷うことなく参加する。 ガイドしていただいたのは和田さんというこの蒸留所の専属ガイドさん。安めぐみ似の美人でにこやかな印象は、このツアーに参加した人々からも非常に心象がよかったようだ。ゆったりとした説明で聞いている方としても大変分かりやすかった。 所内のレイアウトからもウイスキーの製造工程がわかりやすい。 原料の麦芽の乾燥から粉砕、糖化、発酵、蒸留、貯蔵に至るまでの工程が非常に分かりやすい。 以前、サントリーの白州工場(山梨県)の見学も以前したことがあるが、真剣に製造行程を理解しようとするならば、ニッカウイスキー・余市蒸溜所の方がいいかもしれない。 蒸溜所の規模はサントリーの白州工場よりも小さいものの、小ぢんまりとしたツアーでガイドさんも美人で明るく、個人的には非常に楽しめた工場見学であった。
昔からこの会社は、こだわりの製品作りをしている。しかしそのこだわりは、経営にとっては間違いなく足かせとなっている。例えば、こんなことが過去にあった。 ウイスキーは製造開始から出荷まで数年かかる。 そのため、最初期は余市周辺の特産品であったリンゴを原料に、リンゴジュース、リンゴワイン、リンゴゼリーなどを製造・販売していた。しかし、創業者竹鶴の品質へのこだわりはリンゴジュースにも及び、高価な果汁100%ジュースしか出荷しなかったためあまり売れなかったという。 また、第二次大戦後、同業他社から相次いで低質の三級ウイスキーが発売される。しかしながら品質にこだわり、低価格商品を投入しなかったニッカウイスキーは経営が苦しくなる。 当時の筆頭株主の加賀証券社長の加賀正太郎は、経営上の理由から再三、三級の発売を要求。昭和25年、昭和26年に低質の三級ウイスキーを発売するものの、原酒を当時の税法の制限いっぱいの5%ぎりぎりまで入れ、また着色料も粗悪品ではなく、わざわざ砂糖を原料に自社生産したカラメルを使用したという。
そして平成13年、かつてから関係の深かったアサヒビールがニッカの全株式を取得。完全子会社化し、ニッカは完全にアサヒビールグループの一員となっている。 この工場の生産設備を見ていると、大量に商品を売るための設備ではなく、こだわりの製品作りのための設備といってもいいだろう。アサヒビールの一員でなければ、この工場は持ちこたえられないとは思うが、こういうこだわりのある工場も今の時代にあっては面白い存在だと思う。 (追記) 7月17日(火)にニッカウヰスキーの和田さんから直筆のハガキ(右)をいただきましたアンケートに回答した人に一枚ずつ丁寧にハガキを書いている姿が思い浮かびます機会があったら、また行ってみたいです今回の小樽遠征が、とても想い出深いものになりました。 ジャンプ王国余市 一昨年、この余市に来たときに時間の都合で見学できなかった施設がもう一つある。 JR余市駅に隣接する「エルプラザ(余市観光物産センター)」の2階の「ジャンプ王国余市展示ホール」だ。 それほど広い場所ではないのであまり期待はしていなかったが、余市を代表とするジャンパー札幌オリンピック(1972年)の金メダリスト・笠谷幸生(余市郡仁木町出身−余市高校)や、長野オリンピック(1998年)の同じく金メダリスト・船木和喜(余市町出身)に関するものの展示物に期待していった。 全国的な知名度で云えば間違いなくこの二人は突出しているものの、余市町の中では何人かのジャンプの選手と同じように取り扱われていたのは意外だった。 私の同年代の人からすれば、スキーのジャンプで真っ先に思い浮かべるのはやはり「日の丸飛行隊」の活躍だ。地元日本での開催の札幌オリンピックでの、金メダル・笠谷、銀メダル金野、銅メダルの青地の日本人ジャンパーの表彰台独占は、当時小学生の私にとっても感動的だった。小学校でも階段から飛ぶジャンプごっこが流行っていたのは云うまでもない。みんなで「かさや〜ジャンプ!」と言いながら、階段を2段、3段、4段とどんどん高いところからジャンプをして飛ぶのは楽しかった。 そうか、よく考えれば今年は札幌オリンピックから40年目。もうそんなになるのか・・・。この笠谷の活躍を思い出したときだけ、私は小学生に戻った気分だった。
コース紹介(コースガイド) → こちらを参照して下さい。 4度目の正直 「本州は雨でも北海道だけは・・・」と頑張っていた天気も、今朝8時頃からポツリポツリと降りだす。スタートするまではこの降り具合は変わらず、道路を湿らす程度。レースには影響を与えるような降り方ではなかった。
今回も最前列を確保。スタートのロスがなくストレスなくレースに入ることができる。9時25分ちょうどに号砲が響く。
自分自身もこのペースで最後まで走りきればそれなりのタイムが期待できるが、最近は1kmを走るのが精一杯だ。 ペースが落ち出すと後方から一人の選手に抜かれ総合で4位に後退。前の人はいずれもナンバーカードが5000番代なので一番若い35歳未満のカテゴリーの選手たちだ。 2kmを6分51秒で通過。この1kmは3分35秒を要している。時間が早いせいか、沿道に観光客の姿はほとんど無い。
小樽の埠頭で4km(正確には10kmコースの9km地点)を迎える。14分11秒で通過。この2kmが7分20秒(3分40秒/km)。徐々にペースが落ちて入るもののここからが踏ん張りどころ。 旭橋を越える前に一人の選手に抜かれたが、これまた5000番代の若い選手。ゴールの色内埠頭公園はすぐ目の前だ。ハーフマラソンの選手らはそのまま直進するが、5kmの選手は右折しゴールへ向かう。 残り150mほどだろうか、後ろから足音が大きくなる。今の時点でゴールに向かうのは5kmの選手のみ。ゴールまで100mほど。これ以上抜かれる訳にはいかない。頭ではそう思うものの脚がついていかず、この選手(35歳以上50歳未満)にも抜かれたが総合6位、年代別では優勝することができ念願の北海道での国盗り(38都道府県目)を達成することができた。
川浪さんは、毎年この大会に出場しているそうであるが、この大会は雨降りになることが多いという。「他の時期に開催できないの?」と尋ねると、「北海道は雪国だからマラソン大会を開催することができるのが、概ね5〜10月。気候的には6月は悪くないんですけどね。でもなぜかこの大会は雨が多い。今年も雨が降った。」と笑って話される。北海道のようなおおらかな感じの人だった。 本日の戦利品
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