第28回おこっぺ牛乳の里マラソン大会 参戦記 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
爆弾低気圧! 10月上旬の北海道は比較的天候も安定しているだろうと考え、今回この大会に出場することにしたのですが、出発する前日の10月1日(木)から北海道は大荒れの天気になってしまいました。勢力の強かった台風21号が中国大陸に上陸して温帯低気圧になったのですが、これが北海道付近に近寄ってきたときに非常に発達し、気圧も950hPaと台風並の気圧になってしまいました。 昨年10月に沖縄に遠征に行く際も、台風の影響で大会が中止。今回もその二の舞になるかとヒヤヒヤしましたが、名古屋を出発する10月2日(金)の予定便はセントレア(中部国際空港)を約20分遅れで札幌(千歳)へ。何とか門前払いは免れることが出来ました。 ちなみにカウンターのスカイマークの担当者に遅れた原因を尋ねたところ、「那覇→名古屋(中部)の機体の到着が遅れた影響」だそうです。この日は爆弾低気圧のせいで、全国各地の便が遅れていたようです。
オホーツク総合振興局 北海道にはかつて14の支庁(石狩、空知、上川、留萌、宗谷、網走、根室、釧路、十勝、日高、胆振、後志、渡島、檜山)が存在していました。 しかしながら、それまでの支庁を2009年10月以降に総合振興局・振興局に再編することが決定。2008年6月の道議会で、14支庁を9総合振興局(空知、上川、宗谷、オホーツク、釧路、十勝、胆振、後志、渡島)に再編し、その下に総合振興局の出張所として5振興局(石狩、留萌、根室、日高、檜山)を置くこととする条例が可決されました。一部の市町村の反対はあったものの、2010年4月より適用され現在に至っています。 今回訪れた紋別郡興部町は、オホーツク総合振興局管内にあります。支庁再編により「網走支庁」は、「オホーツク総合振興局」と名前を変えただけで、守備範囲は変わらず存在しています。 ちなみにこの「オホーツク総合振興局」の管内の概要ですが、面積−約10,690km2(新潟県より広い!)、総人口−29万5,000人です。私の住んでいる愛知県が、面積−約5,172km2、人口約745万人です。このことから、オホーツク総合振興局管内の面積は、愛知県の約2倍であるものの、人口は逆に約1/25ということがわかります。 またオホーツク総合振興局管内18市町村のうち、人口が1万人以上の市町村を調べたところ、多いところから北見市(約12万人)、網走市(約37、000人)、紋別市(約23,000人)、遠軽町(約21,000人)、美幌町(約20,000人)、斜里町(約12,000人)の5市町ということがわかりました。 ちなみに女満別空港のある大空町は約7,600人。今回大会に参加した興部(おこっぺ)町は約4,000人です。大半は人口1万人を切る小さな町ばかりです。 今回、名古屋(中部)から札幌(千歳)経由で空路を利用し北海道入りしました。札幌からは夜行バスでオホーツク総合振興局のある「網走」に向かいました。網走市も興部町もいずれも同じこのオホーツク総合振興局管内ですので、「さほど遠くはないだろう」と思っていました。 網走で少し観光をしてから宿泊地の紋別市へJRと路線バスを利用して移動することを計画しましたが、実際には移動に非常に時間がかかりました。 正午過ぎに網走を出て紋別に到着したのが夕方の5時過ぎです。乗り換えは僅かに1回。遠軽でJRから路線バスに乗り換えるためにバスターミナルへ徒歩で5分ほど移動。バスターミナル到着後の接続待ちも30分強とJRや路線バス便数の少ない割りには乗り継ぎがスムースにいっているのですが、それでもこの時間です。 それもそのはずです、網走〜遠軽がJRで113.2km。遠軽〜紋別が路線バスで約47km。合計すれば約160km。オホーツク総合振興局管内だけの移動でも、まだ他の総合振興局管内に出ないのですから、オホーツク総合振興局管内というのが、いかに広いことがよくわかるかと思います。ちなみに紋別市にも「オホーツク紋別空港」がありますので、「オホーツク総合振興局」管内には、空港が2つあることになります。
興部(おこっぺ)町と名寄本線、興浜南線 「興部」と書いて「おこっぺ」と読みます。北海道の地名はアイヌ語に漢字をあてはめているので、なかなか読み当てるのが難しいですね。 この「興部」の語源ですが、興部町のホームページから引用すると「アイヌ語『オウコッペ』より転訛したもので、『川尻の合流しているところ』の意であり当時は、興部川、藻興部川が合流しオホーツク海に注いでいたところから、このように呼んでいた」とされています。 興部町ですが、人口約4,000人の小さな町。オホーツク海に面した町で、紋別市の北西約23kmに位置しています。興部町の歴史についても同様に興部町のホームページから以下のように引用させていただきました。次のように書かれています。 「興部町は、宝永年間に松前藩の漁場として支配され明治22年に初めて、沙留に和人が定住、同31年に石川、高知、富山など各県より入地者が来住して本格的に開発が進められました。明治42年、雄武より字興部を、紋別より字沙留、ルロチの2ケ村を分割併合して、興部村外2ケ村長役場が設置されました。 大正4年、北海道2級町村制が施行され興部村となり、その後、大正10年、国鉄名寄線が全通し、農業、林業、漁業の飛躍的発展をみるに至りました。大正14年、興部村から西興部村を分村したが、農林漁業の発展とともに商工業も次第に発展し、昭和26年に町制が施行され、今日に至っています。」 興部町の主たる基幹産業は、酪農(「おこっぺ牛乳」など)、林業、漁業。ホタテ、サケ、マス、毛蟹などが獲れる町です。町内には「雪印メグミルク株式会社(旧・雪印乳業株式会社)興部工場」があります。大会名の「牛乳(ちち)の里」というのもここから来ているのでしょう。 ここまでならばいわゆる典型的な過疎の町に思われるかもしれませんが、かつてこの町は名寄本線が通り、さらにこの興部から分岐する興浜南線のを要する鉄道の要所でした。Wikipediaから要点を引用すると次のようになります。
興浜南線は昭和60年7月に、名寄本線は平成元年4月に廃止され、この町からは鉄道が無くなりました。興部に限ったことではないですが、鉄道は定時運行の象徴であり、町の中心を成してきた歴史があります。それだけに鉄道が廃止になるのは、その町に住む人たちにとって非常に大きな痛手あり町の命運を左右する出来事であったに違いないと思います。 今回の移動で、かつて鉄道の駅があったところのいくつかは、そのまま駅舎が保存されていたり、別の形で駅があったことを風化させないで残しています。鉄道は北海道の開拓の歴史であり、住民の思いが詰まったものであったことをあらためて感じた次第であります。
コース紹介(コースガイド) → こちらを参照してください。 走ってみないとわからなかった 大会当日、爆弾低気圧は通過したものの、紋別・興部付近では相変わらず風が強かった。方角としてはなぜか南西方向から風が強く吹く。吹き荒れるというほどではないが、走るには少々ストレスに感じるような強さだった。
9時20分スタートのハーフマラソン、9時30分スタートの3kmを見送って自分のスタート時間の10時10分にあわせて準備をする。なぜかこの大会は、5kmと10kmは同じ10時10分のスタートとなっている。10kmのエントリーが84人、5kmのエントリーが153人で合計237人。確かに人数からいえば同時にスタートをしてもおかしくない程度の人数だった。直前までウィンドスプリントをしていたので、並んだ場所は2列目の位置。いつもと同じようにスタートのロスがほぼないような位置取りが出来た。 10時10分、久しぶりに聞く号砲でスタートする。今日の明確な目標は無いが、まずは5kmといえども最後までスピードを落とさずにまずは完走。メンバーにもよるが、せっかく北海道まで来たのだから入賞者の一角くらいには食い込みたいというのがぼんやりとした目標だった。
10kmと5kmと同時スタートという珍しいプログラムであったが、序盤からポーンと飛び出すような感じの選手はいない。かといって、団子状態かといえば、そこまでは固まっていない。ある程度の塊が出来つつも、距離が進むにつれて徐々に塊が伸びていくといえばわかるだろう。 レースに先駆けて、アップを兼ねてコースを試走したのであるが、最後の1km以外は距離表示がない。今の自分の実力をはかりかねているのに加えて、距離表示が無いのであるから、いつも以上に自分の体感にかなり頼って走る必要がある。ただし、いつも以上に怪しげな体感であるのであてにはならないはずであるが・・・。 スタートをして最初の交差点を右折したところで、私と同じ年代の選手を2人ほど見つける。見た感じ、2人とも付いていけないようなペースではないので一緒に付いていくことにする。復帰レースとしてはちょうどいい感じのペースメーカーだった。2人のうち1人はしばらくすると後方に下がりはじめた。「今日はこの前を走るこの選手との対決?」と勝手にイメージする。しかしながらハイスピード(といっても大したことはない)に慣れていない体は、しばらくすると息づかいが荒くなってくる。体への酸素の供給が追いつかないというサインだ。 興栄川を眺めて走るコースから二度ほど左折して、コースは興部町のなかでも商店街が並ぶ賑やかな通りに出た。「道の駅おこっぺ」の看板も見える。スタートしてからまだ2kmも走っていないだろうけども、すでに体がきつくなり始めた。ペース的には決して速くないのであるが、同年代の先頭を走る選手に付いていくのがかなりキツイ。雪印メグミルク・興部工場の前の林のあたりでズルズル後退せざるを得なかった。跨線橋の登りもきつく、前を走る集団から徐々に離され出した。とても勝負をするだけの体の仕上がり具合にはほど遠い状態であるとこの時はっきりと感じた。 跨線橋を下り、10kmと5kmとコースが分岐する。私は左折して5kmのコースに向かうが、前を走る選手らはざっと見た感じで、10人以上はいただろうか。前から3人ほどは、等間隔で離れて走っているが、それ以降は数人ぐらいの集団でレースを進めているのがわかった。 唯一の折り返し地点をUターンする。この時の順位は14番目。最近は中学生の男子にも良く負けるが、今日は私の前にユニフォームに「遠軽」と書かれた中学生の女子もいる。中学生の女の子も速いのであろうが、周りの景色の移りかわりを見ているといつもよりもさらにゆっくり景色が流れているような気がする。
ゴールまであと1km」の看板が見え、ナナカマドの街路樹の通りを真っ直ぐ走る。ナナカマドは、本州では高地にしか生えていない植物であるが、北海道ではこんな平地にも生えている(というか街路樹なので自生したものではなく、植樹したものであろうが・・・)。寒さに強い樹木のようであり、興部町の町木になっている。ちょうどこの時期、ナナカマドが赤い実を鈴なりにつけている。ランナーたちを一生懸命に応援しているようにも見える。 さすがにゴールが近づいてくると応援する人たちも増えてきた。この人たちは地元の人というよりも、出場している選手の家族や友人のような感じであるが、応援があればテンションは高くなっていく。 しかしながら応援とは裏腹に、私の脚の動きはピタッと止まってしまっている。足が棒になったという感じでは無く、ピッチが鈍くなったと云うべきか。終盤は私よりもペースの落ち込みの大きくなった中学生を抜いていったものの、同じく「遠軽」とユニフォームに書かれたもう一人の女子中学生にも抜かれる。さらに最後の交差点を左折してゴールまで残り100mほどのところで、同年代の選手にも抜かれる。序盤のハイペースがたたったのか、終盤は逆襲するだけの余力がなかった。
19分41秒。これが今日のゴールタイム。20分かかることも覚悟はしていたが、何とか平均で4分/kmを切るスピードを維持できたというのは収穫だった。着順こそ年代別3位であったが、こちらはおまけ。結果については全く満足は出来ないが、形としてはそこそこのペースで走ってゴールしたことになる。 今回は約6ヶ月ぶりのレースで、走ってみないとわからない状態で出走したのであるが、まずまずイメージに近い状態で走れ、またゴールができたような気がする。ただし、わずか5km−20分弱のレースにもかかわらず、夕方ホテルに戻ってストレッチなどをすれば、一定の方向で腰の痛みは発生するし、腰の違和感が全く無くなったわけでもない。この辺りのことは、今まで以上に注意しながら腰痛とは対峙していくしかないだろう。そこそこの感覚で走れたこと、自分の実力がわかったこと、走った後の体の様子がわかったことなど、いつもとは違う意味の収穫があったような気がする。
本日の戦利品
番外編(その1) このサイトはグルメをテーマにしたものではありませんが、せっかく北海道に行ったので予算の範囲内で食べたものを2つほど紹介します。いずれも宿泊した紋別市内です。 一つ目は、事前に口コミで調べたものです。ホテルから徒歩で5分くらいのところにある、「味処あづま」さんというお店です。少々値段は高めですが、鮮度といい味といいさすが地元という感じでした。生のカニを食べたのは久しぶりでした。紋別ではオススメのお店ですね。
もう一軒は、ホテルから徒歩で2分ほどのところです。 旧JR紋別駅跡地に「オホーツク氷紋の駅」が出来ました。お土産を買うために立ち寄ったのですが、お腹が減ったタイミングで目に入ったのが「らーめん西や」さんです。雰囲気としてはスーパーマーケットの中にある軽食コーナーの感じのお店です。入りやすいという意味ではとても良かったです。味もまずまず。見た感じは観光客が入る店というよりか、地元の人が入る店という雰囲気です。こちらは敷居が低い感じでよかったです。
番外編(その2/博物館網走監獄) 今回移動時間が長く、観光に割く時間が少なかった。その中で、何とか時間を作って観光をしたのが「博物館網走監獄」。オホーツク地方では有数の観光地でもある。 この「博物館網走監獄」であるが、網走刑務所内の施設の建て替えなどをする際に、実際にそこで使われていたものを移設して保存展示をしている。実際の網走刑務所は、この「博物館網走監獄」から2kmほど離れたところにあり、もちろん「博物館網走監獄」には囚人はいない。 その「網走刑務所」であるが、高倉健が主演した東映のシリーズ「網走番外地」で非常に有名になった。ウイキペディアから、網走刑務所の歴史をひもとくと次のようになる。 明治23年(1890年)釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所として開設。 明治24年、160km以上に及ぶ中央道路を約8ヶ月の突貫工事で建設。約1,200人ほどが従事したが、そのうち約200人の収容者が死亡。作業中に死亡した収容者は、そのまま道路沿いに手鎖、足鎖を付けたまま埋められたという。 明治36年に「網走監獄」に改名。この頃からは死亡者が続出するような強制労働は無くなり、農場の開墾と営農が行われるようになった。大正11年に「網走刑務所」に改名。 網走刑務所は、映画の影響からか極悪犯が収容されているイメージがあるが、実際には執行刑期10年以下の受刑者の短期処遇を目的とする刑事施設。定員1,600人。日本最北端の刑務所である。
ここでは書き切れないが、見るべきところはたくさんある。今回はベテランのガイドさんによって私の質問にも的確に答えていただき楽しく網走監獄を見学できた。オホーツク地方に行くことがあれば、一度は必ず訪れたい施設であると思う。 |