第28回おこっぺ牛乳の里マラソン大会 参戦記

 6ヶ月ぶりのレースです。
 今年の2月中旬に椎間板ヘルニアになってしまい、2月中は歩行も困難、3月中は多少は練習できたもののなぜか足に痛みが出るため長時間の練習が出来ませんでした。その後、5月、6月、7月と日が経つにつれて徐々に回復してきて、練習量だけは以前と同じくらいまでにこなせるようになってきました。徐々に回復してこともあり、10月くらいを目処にレースに復帰するプランを立てました。
 走友のNさんとは、今月末に一緒に軽井沢に出かける予定を組んでいます。当初は軽井沢の大会を復帰戦と考えていたのですが、練習のペースが上がってきたので前倒して10月上旬に復帰戦を組みました。

 今回の遠征先の北海道紋別郡興部(おこっぺ)町はオホーツク海に面する小さな町です。紋別市で前泊しましたが、この日の紋別の最低気温は5.7℃(午前4時)。スタート時の興部町の気温も12.6℃と名古屋では11月の中下旬の気候でした。走りやすかったですが、この気温になれていないこともありちょっと寒かった感じです。

 さてレースの方ですが、スピード練習を再開したばかりですので、、高速での脚のスタミナがどこまで維持できるかがポイントになります。正直、走ってみないとわからないと思っていましたが、実際もそんな感じでした。スタートしてからとりあえず同年代の選手を探して付いていくことにしました。2人ほどいましたが一人は振り切り、もう一人に付いていけたのも1.5kmほど。途中からはガクンとペースが落ちて、終盤には中学生の女の子や最初に抜いた同年代の選手に抜き返されてゴール。約半年ぶりのレースでしたが何とか20分を切り、3分台/kmのペースで走れることがわかりました。今回年代別では3位に入賞は出来ましたが、到底このタイムでは優勝は狙えません。何とか3分30秒/kmまで走れるように頑張っていきたいと感じた次第です。

●大会名 第28回おこっぺ牛乳の里マラソン大会
●開催日 平成27年10月4日(日)
●コース
 /大会要項
 /プログラム
興部小学校発着(地図)(北海道紋別郡興部町) 

大会要項 ()(

プログラム

コースマップ
コースガイドはこちら
いずれもクリックすると拡大します
●天 候 晴れ、13℃くらい
●参加賞 タオル、ホタテご飯、牛乳(紙パック)、バナナ、オレンジジュース(紙パック/ゴール後)、スポーツドリンク(コップ/ゴール後)、鮭鍋、小型カメラ(抽選会)
●結 果 19分41秒(総合 第12位、50歳代男子 第3位)
●表彰 賞状、楯
●過去の戦績 初出場
●交通手段等
【10月2日(金)/1日目】
徒歩 自宅 14:07 自由ヶ丘駅 14:19
地下鉄 自由ヶ丘 14:27 金山 14:52 (名城線)
名鉄 金山 15:05 中部国際空港 15:36 (常滑線)
飛行機 名古屋(中部) 17:00 札幌(千歳) 18:35 (SKY767)
16:40 18:25
JR 新千歳空港 21:15 札幌 21:59 (快速エアポート213号)
( 21:55 )
徒歩 札幌駅 21:59 札幌ターミナル 22:15
夜行バス 札幌ターミナル 23:40 網走駅前 5:57 (ドリーミントオホーツク号)
【10月3日(土)/2日目】
路線バス 網走駅前 8:49 博物館網走監獄 8:56 (網走バス)
【博物館 網走刑務所 見学(有料ガイドツアー9:30〜11:00)】
路線バス 博物館網走監獄 11:16 網走駅 11:25 (網走バス)
JR 網走 12:10 遠軽 14:53 (石北本線)
路線バス 遠軽 15:40 紋別BT 17:05 (北紋バス)
徒歩 紋別BT 17:05 ホテル 17:10
【ホテル オホーツクパレス/泊】
【10月4日(日)/3日目】
徒歩 ホテル 6:41 紋別BT 6:43
路線バス 紋別BT 7:03 興部町役場 7:43 (北紋バス)
6:59 7:39
徒歩 興部町役場バス停 7:43 会場 7:55
【第28回おこっぺ牛乳の里マラソン大会 5km 10:10スタート】
徒歩 会場 13:12 道の駅おこっぺ 13:21
路線バス 興部 13:45 紋別BT 14:25 (北紋バス)
徒歩 紋別BT 14:25 ホテル 14:27
【ホテル オホーツクパレス/泊】
【10月5日(月)/4日目】
徒歩 ホテル 8:22 紋別BT 8:24
高速バス 紋別BT 8:30 札幌駅前ターミナル 12:39 (流氷紋別号)
12:50
JR 札幌 12:55 新千歳空港 13:32 (快速エアポート126号)
飛行機 札幌(千歳) 16:02 名古屋(中部) 17:55 (SKY766)
16:00 17:50
名鉄 中部国際空港 18:14 金山 18:50 (常滑線)
( 18:49 )
地下鉄 金山 18:58 自由ヶ丘 19:23 (名城線)
徒歩 自由ヶ丘駅 19:23 19:36
※ 赤色の時刻は、実際に出発(到着)した時刻。青色の時刻は、出発(到着)予定時刻
●費用
参加料 2,500円  
地下鉄 540円 (自由ヶ丘〜金山/往復)
飛行機 9,500円 (スカイマーク/名古屋〜札幌)
9,900円 (スカイマーク/札幌〜名古屋)
高速バス 6,390円 (札幌ターミナル〜網走駅前/ドリーミントオホーツク号)
4,930円 (紋別BT〜札幌駅T/流氷紋別号)
路線バス 480円 (網走駅前〜博物館網走監獄/往復)
1,310円 (遠軽〜紋別BT)
720円 (紋別BT〜興部町役場)
720円 (興部〜紋別BT)
名鉄 1,620円 (金山〜中部国際空港/往復)
JR 2,140円 (新千歳空港〜札幌/往復)
2,490円 (網走〜遠軽)
宿泊料 10,800円 (ホテルオホーツクパレス/素泊まり/2泊)
入場料 970円 (網走刑務所見学/ネット10%引)
200円 (有料ガイドツアー)
コインランドリー 400円 (200円×2回)
合 計 55,610円  
●種目、参加者数(申込人数) 及び 各部優勝者。
  5km 一般男子50歳代は6位まで (
★は加藤が参加した部門 上位結果はこちら
【ハーフマラソン−9時20分スタート
区分 参加者数 優勝者氏名 年齢 所属 記録
一般男子39歳以下 43人 篠原 改人 24 遠軽自衛隊 1゜16’12”
一般男子40歳以上 52人 舘山 孝利 45 稚内開発建設部 1゜26’25”
一般女子 11人 大谷 まさみ 46 旭川ARA 1゜50’51”
【10km−10時10分スタート】
区分 参加者数 優勝者氏名 年齢 所属 記録
一般男子39歳以下 20人 若住 淳人 32   36’32”
一般男子40歳以上 40人 野上 勲 65 おこっぺRC 38’22”
一般女子 24人 野瀬 路子 56 キャラサラ 46’53”
【5km−10時10分スタート】
区分 参加者数 優勝者氏名 年齢 所属 記録
一般男子29歳以下 33人 佐藤 大貴 26   17’24”
一般男子30歳代 15人 久保 貴人 34 作.AC猿払 17’42”
一般男子40歳代 20人 荒木 信治 40 アラワンダーフォーゲル部 18’37”
★一般男子50歳代 18人 梅甚 聡 50 王子マテリア 18’35”
高橋 克也 51 興部道路事務所 19’36”
加藤 一郎 53 名古屋市役所 19’41”
小原 茂則 52 風連中学校 21’36”
中村 伸二 59 楽走412旭川 22’06”
鈴木 勝司 50   23’10”
一般男子60歳以上 13人 片岡 義文 67 KDS維新の会 20’57”
女子(中学生以上) 32人 金子 佑香 14 遠軽中学校2年生 18’37”
中学男子 22人 渡邊 康太 15 雄武中学校3年生 19’24”
【3km−9時30分スタート】
区分 参加者数 優勝者氏名 年齢 所属 記録
小学男子低学年 36人 鈴木 将矢 遠軽小学校3年生 12’57”
小学男子高学年 29人 本間 君耶 11 遠軽陸上クラブ 11’11”
小学女子低学年 19人 牧野 香凜 なよろJAC 14’24”
小学女子高学年 12人 永井 優会 12 のうみそJrRC 11’41”
中学・高校女子 7人 金子 杏香 12 遠軽中学校 11’03”
一般女子 24人 小野 優子 56   12’20”
総合計 470人  

爆弾低気圧!
 10月上旬の北海道は比較的天候も安定しているだろうと考え、今回この大会に出場することにしたのですが、出発する前日の10月1日(木)から北海道は大荒れの天気になってしまいました。勢力の強かった台風21号が中国大陸に上陸して温帯低気圧になったのですが、これが北海道付近に近寄ってきたときに非常に発達し、気圧も950hPaと台風並の気圧になってしまいました。
 昨年10月に沖縄に遠征に行く際も、台風の影響で大会が中止。今回もその二の舞になるかとヒヤヒヤしましたが、名古屋を出発する10月2日(金)の予定便はセントレア(中部国際空港)を約20分遅れで札幌(千歳)へ。何とか門前払いは免れることが出来ました。
 ちなみにカウンターのスカイマークの担当者に遅れた原因を尋ねたところ、「那覇→名古屋(中部)の機体の到着が遅れた影響」だそうです。この日は爆弾低気圧のせいで、全国各地の便が遅れていたようです。

中部国際空港から登場するスカイマークのSKY767便は、16時40分出発の予定が20分遅れ。那覇からの使用機材の遅れとか。

今回はスカイマークを利用して北海道へ。この機体も那覇→名古屋(中部)→札幌(千歳)と北上していくが、その前はどこを飛んでいたのだろうか?

機内はほぼ満席に近い状態でした。

中部国際空港を飛び立ってしばらくすると眼下は雲。爆弾低気圧の影響で、全国的に曇天または雨天のようです。ただし、雲の切れ目から見えるのは場所からいって北アルプスのようです。頂の方が雲より上ということですね。

ちょうど夕日が沈む時間帯でした。珍しい光景だったために撮影しておきました。

オホーツク総合振興局
 北海道にはかつて14の支庁(石狩、空知、上川、留萌、宗谷、網走、根室、釧路、十勝、日高、胆振、後志、渡島、檜山)が存在していました。
 しかしながら、それまでの支庁を2009年10月以降に総合振興局・振興局に再編することが決定。2008年6月の道議会で、14支庁を9総合振興局(空知、上川、宗谷、オホーツク、釧路、十勝、胆振、後志、渡島)に再編し、その下に総合振興局の出張所として5振興局(石狩、留萌、根室、日高、檜山)を置くこととする条例が可決されました。一部の市町村の反対はあったものの、2010年4月より適用され現在に至っています。

 今回訪れた紋別郡興部町は、オホーツク総合振興局管内にあります。支庁再編により「網走支庁」は、「オホーツク総合振興局」と名前を変えただけで、守備範囲は変わらず存在しています。
 ちなみにこの「オホーツク総合振興局」の管内の概要ですが、面積−約10,690km(新潟県より広い!)、総人口−29万5,000人です。私の住んでいる愛知県が、面積−約5,172km、人口約745万人です。このことから、オホーツク総合振興局管内の面積は、愛知県の約2倍であるものの、人口は逆に約1/25ということがわかります。

 またオホーツク総合振興局管内18市町村のうち、人口が1万人以上の市町村を調べたところ、多いところから北見市(約12万人)、網走市(約37、000人)、紋別市(約23,000人)、遠軽町(約21,000人)、美幌町(約20,000人)、斜里町(約12,000人)の5市町ということがわかりました。
 ちなみに女満別空港のある大空町は約7,600人。今回大会に参加した興部(おこっぺ)町は約4,000人です。大半は人口1万人を切る小さな町ばかりです。

 今回、名古屋(中部)から札幌(千歳)経由で空路を利用し北海道入りしました。札幌からは夜行バスでオホーツク総合振興局のある「網走」に向かいました。網走市も興部町もいずれも同じこのオホーツク総合振興局管内ですので、「さほど遠くはないだろう」と思っていました。
 網走で少し観光をしてから宿泊地の紋別市へJRと路線バスを利用して移動することを計画しましたが、実際には移動に非常に時間がかかりました。
 正午過ぎに網走を出て紋別に到着したのが夕方の5時過ぎです。乗り換えは僅かに1回。遠軽でJRから路線バスに乗り換えるためにバスターミナルへ徒歩で5分ほど移動。バスターミナル到着後の接続待ちも30分強とJRや路線バス便数の少ない割りには乗り継ぎがスムースにいっているのですが、それでもこの時間です。
 それもそのはずです、網走〜遠軽がJRで113.2km。遠軽〜紋別が路線バスで約47km。合計すれば約160km。オホーツク総合振興局管内だけの移動でも、まだ他の総合振興局管内に出ないのですから、オホーツク総合振興局管内というのが、いかに広いことがよくわかるかと思います。ちなみに紋別市にも「オホーツク紋別空港」がありますので、「オホーツク総合振興局」管内には、空港が2つあることになります。

札幌ターミナルは、JR札幌駅から徒歩で15分ほど離れたところにあります。

ここから23時40分発のドリーミントオホーツク号という夜行バスで網走まで移動します。乗客の大半は途中の北見で下車してしまいました。

網走ではJR網走駅から4kmほど離れたところにある「博物館網走監獄」を見学しました。

再びJR網走駅に戻って今日の宿泊地の紋別まで移動します。

網走から紋別への移動手段としては、途中の遠軽まではこのJR石北本線の列車を使用します。

網走12:10→遠軽14:53。113.2kmを鈍行のこの列車で2時間40分以上かけて移動します。

しばらくの間、私と一緒に旅をした乗車券。

石北本線は険しいところを走る路線ですが、かといって北海道らしい景色も列車から見えました。

農場や牧場もあちこちに見えました。

定刻通りに遠軽に到着。

JR遠軽駅から徒歩で5分ほどのところにバスターミナルがあります。

ここから紋別までは、この路線バスで移動です。

主に国道238号線を走りますが、湧別、枝幸、サロマ湖など見覚えのある地名が登場してきます。

爆弾低気圧で倒れたのでしょうか。

これも北海道らしい景色の一つでしょう。

真っ直ぐ伸びる道路も珍しくありません。

午後5時過ぎに紋別バスターミナルに到着。網走を昼過ぎに出ましたが、紋別に到着する頃には夕方になってしまいました。

今日の宿泊は、このバスターミナルのすぐそばの「オホーツクパレスホテル」です。なかなか立派なホテルでした。

興部(おこっぺ)町と名寄本線、興浜南線
 「興部」と書いて「おこっぺ」と読みます。北海道の地名はアイヌ語に漢字をあてはめているので、なかなか読み当てるのが難しいですね。
 この「興部」の語源ですが、興部町のホームページから引用すると「アイヌ語『オウコッペ』より転訛したもので、『川尻の合流しているところ』の意であり当時は、興部川、藻興部川が合流しオホーツク海に注いでいたところから、このように呼んでいた」とされています。

 興部町ですが、人口約4,000人の小さな町。オホーツク海に面した町で、紋別市の北西約23kmに位置しています。興部町の歴史についても同様に興部町のホームページから以下のように引用させていただきました。次のように書かれています。

 「興部町は、宝永年間に松前藩の漁場として支配され明治22年に初めて、沙留に和人が定住、同31年に石川、高知、富山など各県より入地者が来住して本格的に開発が進められました。明治42年、雄武より字興部を、紋別より字沙留、ルロチの2ケ村を分割併合して、興部村外2ケ村長役場が設置されました。
 大正4年、北海道2級町村制が施行され興部村となり、その後、大正10年、国鉄名寄線が全通し、農業、林業、漁業の飛躍的発展をみるに至りました。大正14年、興部村から西興部村を分村したが、農林漁業の発展とともに商工業も次第に発展し、昭和26年に町制が施行され、今日に至っています。」

 興部町の主たる基幹産業は、酪農(「おこっぺ牛乳」など)、林業、漁業。ホタテ、サケ、マス、毛蟹などが獲れる町です。町内には「雪印メグミルク株式会社(旧・雪印乳業株式会社)興部工場」があります。大会名の「牛乳(ちち)の里」というのもここから来ているのでしょう。

 ここまでならばいわゆる典型的な過疎の町に思われるかもしれませんが、かつてこの町は名寄本線が通り、さらにこの興部から分岐する興浜南線のを要する鉄道の要所でした。Wikipediaから要点を引用すると次のようになります。
【名寄本線】
 名寄本線は、北海道鉄道敷設法に規定する「天塩国奈与呂ヨリ北見国網走ニ至ル鉄道」の一部であり、道央とオホーツク海沿岸方面を結ぶ幹線鉄道として建設されたもの。
 名寄 - 中湧別間は難所であった石北峠・北見峠を避けて、名寄方は名寄西線(なよろさいせん)、中湧別方は名寄東線(なよろとうせん)として両側から建設が進められ、
大正8年から大正10年にかけて名寄線(なよろせん)として全線が開通した。大正12年に支線(渚滑線)の開業に伴って名寄本線に改称

 昭和7年に北見峠を克服して石北線(当時の名称。昭和36年に石北本線と改称)が全通すると湧別線は遠軽を境に分割され、遠軽 - 下湧別間は名寄本線に、遠軽 - 野付牛間は石北線に編入。同時に、
名寄本線は幹線鉄道としての役目を石北線に譲る
 第2次特定地方交通線に指定されたが、冬季の代替輸送に問題があるとして他の3線(天北線・池北線・標津線)と共に一時、廃止承認が保留。しかし、結局、昭和60年に問題が無くなったとして追加廃止承認。

 国鉄分割民営化後、比較的乗降客数が多かった名寄駅 - 下川駅と紋別駅 - 遠軽駅間を第三セクター化して部分存続させる案が浮上。
廃止区間となる興部町などが全線存続を強く主張したため交渉が決裂。結局、鉄道としての存続は断念され、平成元年4月30日の旅客営業を以って全線廃止

大正8年10月 名寄 - 下川間 (16.5km) が名寄線として開業
大正9年10月 下川 - 上興部間 (22.4km) が延伸開業
大正10年3月 中湧別 - 興部間 (54.1km) が名寄東線として開業。名寄 - 上興部間を名寄西線に改称
大正10年10月 上興部 - 興部間 (28.9km) が延伸開業し全通。名寄東線を名寄西線に編入して名寄線として統合
大正12年11月 名寄線を名寄本線と改称
昭和7年10月 湧別線の遠軽 - 下湧別間を名寄本線に編入し、名寄本線(名寄 - 遠軽間、中湧別 - 下湧別間)に改称
昭和24年6月 日本国有鉄道法施行に伴い、日本国有鉄道(国鉄)に移管
昭和53年12月 中湧別 - 湧別の貨物営業を廃止。中名寄・上名寄・二ノ橋・中興部・宇津・小向・沼ノ上・開盛の各駅の荷物取扱を廃止し旅客のみ取扱とする
昭和59年2月 一ノ橋・西興部・上湧別・湧別・渚滑の各駅の荷物取扱を廃止し旅客のみ取扱とする
昭和60年8月 第2次特定地方交通線として廃止承認
昭和62年4月 国鉄分割民営化に伴い、北海道旅客鉄道(JR北海道)に移管。全線 (143.0km) の貨物営業を廃止
平成元年4月 全線 (143.0km) を廃止し、バス路線に転換
【興浜南線】
 名寄線開通により鉄道が敷設された興部村、その北側の雄武村は幾多の恩恵を受けたが、興部と雄武の間は道路が整っておらず、融雪期や多雨期の水産・農産物輸送に支障。大正11年4月に公布された鉄道敷設法に興部駅より幌内・枝幸を経て浜頓別駅に至る路線(興浜線)が含まれた。
 着手は昭和8年春までずれ込み、昭和10年9月、沿線の漁場や山林開発を目的として
興部駅 - 雄武駅間の興浜南線が開通。

 雄武 - 枝幸間の開通を目指して積極的な陳情を行うものの、太平洋戦争の拡大により同区間の着工は棚上げ。興浜南線は昭和19年10月に不要不急線に指定。

 昭和20年12月に営業再開。再開後は通学生や鮮魚商で活況を見せる。昭和30年代前半までが興浜南線の最盛期。同年代中盤より客貨量が徐々に減少し始める。黒字とはならなかったが営業係数は125から200前後であったことから昭和35年4月には雄武 - 北見枝幸間の着工が決定し工事が進められる。

 昭和40年代に入ると過疎やモータリゼーションの進行により営業成績が急速に低下。昭和35年の年間輸送人員は42万4千人程であったが、昭和45年は29万8千人に減少。以降も減少の一途。貨物取扱量も最盛期の半分以下に落ち込む。これを受けて雄武 - 北見枝幸間の工事は昭和52年度をもって中止。

 昭和56年9月、稚内駅から興浜南線などオホーツク海沿いの鉄路を経て釧路駅へ至る「オホーツク本線敷設構想」を沿線自治体で立ち上げる。興浜線の工事再開や需要喚起を狙ってのことであったが、この1週間後に興浜南線は日本国有鉄道経営再建促進特別措置法を受けた第1次廃止対象路線に指定。興部町と雄武町は興浜線工事再開やオホーツク本線どころではなくなり興浜南線の存続運動に集中したものの、昭和57年度の営業係数は1,734にまで悪化。万策尽き、廃止を認めざるを得ない状態となる。昭和59年2月に貨物取扱を廃止。
昭和60年7月14日の営業を最後に興浜南線の半世紀にわたる歴史に幕を閉じる。

昭和10年9月 興部 - 雄武間 (19.9km) を興浜南線として開業
昭和19年11月 全線 (19.9km) を休止
昭和20年12月 全線 (19.9km) の営業を再開
昭和50年3月 蒸気機関車の運転を廃止
昭和56年9月 第1次特定地方交通線として廃止承認
昭和59年2月 全線の貨物営業を廃止
昭和60年7月 全線 (19.9km) を廃止。北紋バスに転換

 興浜南線は昭和60年7月に、名寄本線は平成元年4月に廃止され、この町からは鉄道が無くなりました。興部に限ったことではないですが、鉄道は定時運行の象徴であり、町の中心を成してきた歴史があります。それだけに鉄道が廃止になるのは、その町に住む人たちにとって非常に大きな痛手あり町の命運を左右する出来事であったに違いないと思います。

 今回の移動で、かつて鉄道の駅があったところのいくつかは、そのまま駅舎が保存されていたり、別の形で駅があったことを風化させないで残しています。鉄道は北海道の開拓の歴史であり、住民の思いが詰まったものであったことをあらためて感じた次第であります。

遠軽から紋別までバスで移動中に見つけました。名寄本線の中湧別駅記念館のようです。

紋別のバスターミナルのそばにありました。現在はオホーツク「氷紋の駅」として、スーパーマーケット「しめまる」、紋別特産品コーナー「紋太のてみやげ」、紋別のおみやげ専門店「タウンショップ栄一夢」、「らーめん西や」、くつろぎの湯処「紋太の湯」などが入って活況を呈しています。

マラソン大会の会場の興部小学校から徒歩で少し行ったところにある道の駅「おこっぺ」。旧JR興部駅があったところを利用し、交通記念複合施設ANEW(アニュウ)、交通記念広場JOYPARKに整備されました。

ここらを走っていたD51の動輪でしょうか。

ANEWには鉄道記念コーナーもあります。

名寄本線の興部町界隈の写真でしょうか。

名寄本線は、名寄から興部を経由して遠軽までの143.0kmを走っていました。興部〜雄武は興浜南線です。

興部は名寄本線と興浜南線の乗換駅として、鉄道の要所だったことがわかります。
 
昭和60年頃の北海道の鉄道網。現在と比べると、相当あちこちを毛細血管のように走っていました。

興浜南線が廃止となった昭和60年7月14日の興部駅の様子だそうです。

こちらは名寄本線が廃止となった平成元年4月30日の興部駅の様子だそうです。

こちらは「RUGOSA EXPRESS」といって、名寄本線を走っていた客車を改装したもの。

1両は無料宿泊施設、もう1両はサロンとしての利用ができるそうです。

宿泊施設の方は鍵がかかって入れませんでしたが、サロンの方を覗くと客席の半分は当時のまま残っていました。

宿泊施設の車両は昭和33年の新潟鉄工所での製造のプレートが付いていました。サロンの車両は昭和40年の製造で同じく新潟鉄工所製でした。

紋別から札幌行きの高速バスの途中にありました。「北見滝ノ上駅」とはっきりわかります。紋別と興部の間にあった渚滑からこの北見滝ノ上までが国鉄・渚滑線(34.3km)で、大正12年11月開業、昭和60年4月に廃止。現在、この渚滑線のあったところを、私が乗ったこの高速バス「流氷もんべつ号」が一日4往復(札幌−紋別)を走っています。札幌に出かけるのであれば、かえって便利になったかもしれません。

コース紹介(コースガイド) →
 こちらを参照してください。

走ってみないとわからなかった
 大会当日、爆弾低気圧は通過したものの、紋別・興部付近では相変わらず風が強かった。方角としてはなぜか南西方向から風が強く吹く。吹き荒れるというほどではないが、走るには少々ストレスに感じるような強さだった。

前泊したホテルの横の紋別バスターミナルから興部方面のバスに乗車。受付が8時からなので午前7時頃のバスに乗車。本数が少ないので乗り遅れは致命的になる。

紋別の市街地を抜けると右手にオホーツク海が見えてくる。冬は流氷で覆われるのであろうか。

バスに40分ほど揺られ、興部町役場で下車。会場の興部小学校までは徒歩で5分ほど。

大会の受付風景。コースごと、部門ごとに分かれて整然と受付がされていました。

 9時20分スタートのハーフマラソン、9時30分スタートの3kmを見送って自分のスタート時間の10時10分にあわせて準備をする。なぜかこの大会は、5kmと10kmは同じ10時10分のスタートとなっている。10kmのエントリーが84人、5kmのエントリーが153人で合計237人。確かに人数からいえば同時にスタートをしてもおかしくない程度の人数だった。直前までウィンドスプリントをしていたので、並んだ場所は2列目の位置。いつもと同じようにスタートのロスがほぼないような位置取りが出来た。

 10時10分、久しぶりに聞く号砲でスタートする。今日の明確な目標は無いが、まずは5kmといえども最後までスピードを落とさずにまずは完走。メンバーにもよるが、せっかく北海道まで来たのだから入賞者の一角くらいには食い込みたいというのがぼんやりとした目標だった。

9時20分スタートのハーフマラソン部門の選手たち

11月になると積雪が始まるのでしょうか。今が北海道のマラソンシーズンの終盤ですね。

こちらは3km部門のスタート。スタート場所が他の3種目と異なっています。

元気良く飛び出していった小学生が目につきました。

 10kmと5kmと同時スタートという珍しいプログラムであったが、序盤からポーンと飛び出すような感じの選手はいない。かといって、団子状態かといえば、そこまでは固まっていない。ある程度の塊が出来つつも、距離が進むにつれて徐々に塊が伸びていくといえばわかるだろう。
 レースに先駆けて、アップを兼ねてコースを試走したのであるが、最後の1km以外は距離表示がない。今の自分の実力をはかりかねているのに加えて、距離表示が無いのであるから、いつも以上に自分の体感にかなり頼って走る必要がある。ただし、いつも以上に怪しげな体感であるのであてにはならないはずであるが・・・。

 スタートをして最初の交差点を右折したところで、私と同じ年代の選手を2人ほど見つける。見た感じ、2人とも付いていけないようなペースではないので一緒に付いていくことにする。復帰レースとしてはちょうどいい感じのペースメーカーだった。2人のうち1人はしばらくすると後方に下がりはじめた。「今日はこの前を走るこの選手との対決?」と勝手にイメージする。しかしながらハイスピード(といっても大したことはない)に慣れていない体は、しばらくすると息づかいが荒くなってくる。体への酸素の供給が追いつかないというサインだ。
 興栄川を眺めて走るコースから二度ほど左折して、コースは興部町のなかでも商店街が並ぶ賑やかな通りに出た。「道の駅おこっぺ」の看板も見える。スタートしてからまだ2kmも走っていないだろうけども、すでに体がきつくなり始めた。ペース的には決して速くないのであるが、同年代の先頭を走る選手に付いていくのがかなりキツイ。雪印メグミルク・興部工場の前の林のあたりでズルズル後退せざるを得なかった。跨線橋の登りもきつく、前を走る集団から徐々に離され出した。とても勝負をするだけの体の仕上がり具合にはほど遠い状態であるとこの時はっきりと感じた。

 跨線橋を下り、10kmと5kmとコースが分岐する。私は左折して5kmのコースに向かうが、前を走る選手らはざっと見た感じで、10人以上はいただろうか。前から3人ほどは、等間隔で離れて走っているが、それ以降は数人ぐらいの集団でレースを進めているのがわかった。
 唯一の折り返し地点をUターンする。この時の順位は14番目。最近は中学生の男子にも良く負けるが、今日は私の前にユニフォームに「遠軽」と書かれた中学生の女子もいる。中学生の女の子も速いのであろうが、周りの景色の移りかわりを見ているといつもよりもさらにゆっくり景色が流れているような気がする。

ゴールを目指すランナー。白地のナンバーカードはハーフマラソン、ブルーは10kmの選手。

ゴールは近いですよ〜!

 ゴールまであと1km」の看板が見え、ナナカマドの街路樹の通りを真っ直ぐ走る。ナナカマドは、本州では高地にしか生えていない植物であるが、北海道ではこんな平地にも生えている(というか街路樹なので自生したものではなく、植樹したものであろうが・・・)。寒さに強い樹木のようであり、興部町の町木になっている。ちょうどこの時期、ナナカマドが赤い実を鈴なりにつけている。ランナーたちを一生懸命に応援しているようにも見える。

 さすがにゴールが近づいてくると応援する人たちも増えてきた。この人たちは地元の人というよりも、出場している選手の家族や友人のような感じであるが、応援があればテンションは高くなっていく。
 しかしながら応援とは裏腹に、私の脚の動きはピタッと止まってしまっている。足が棒になったという感じでは無く、ピッチが鈍くなったと云うべきか。終盤は私よりもペースの落ち込みの大きくなった中学生を抜いていったものの、同じく「遠軽」とユニフォームに書かれたもう一人の女子中学生にも抜かれる。さらに最後の交差点を左折してゴールまで残り100mほどのところで、同年代の選手にも抜かれる。序盤のハイペースがたたったのか、終盤は逆襲するだけの余力がなかった。

ラストスパート!

写真は10km部門のトップでゴールする選手

少し風の強い日でしたが、天候も大きく崩れることもなくみなさん気持ちよくゴールできたかと思います。(注 写真は私ではありません。念のため)

ゴール後は係員の女の子から紙パックのジュースを手渡されます。

少し離れた所には、スポーツドリンクのサービスがありました。

 19分41秒。これが今日のゴールタイム。20分かかることも覚悟はしていたが、何とか平均で4分/kmを切るスピードを維持できたというのは収穫だった。着順こそ年代別3位であったが、こちらはおまけ。結果については全く満足は出来ないが、形としてはそこそこのペースで走ってゴールしたことになる。

 今回は約6ヶ月ぶりのレースで、走ってみないとわからない状態で出走したのであるが、まずまずイメージに近い状態で走れ、またゴールができたような気がする。ただし、わずか5km−20分弱のレースにもかかわらず、夕方ホテルに戻ってストレッチなどをすれば、一定の方向で腰の痛みは発生するし、腰の違和感が全く無くなったわけでもない。この辺りのことは、今まで以上に注意しながら腰痛とは対峙していくしかないだろう。そこそこの感覚で走れたこと、自分の実力がわかったこと、走った後の体の様子がわかったことなど、いつもとは違う意味の収穫があったような気がする。

手前はフレンチドッグのお店、奧は無料マッサージのブースです。

たこ焼きとクレープの移動販売車も来ていました。この辺りでは珍しいのでしょうか。

手前はそばとうどん、奧は焼き鳥屋です。

その焼き鳥屋ですが、豪快に煙をたてていたせいか、煙につられて行列がしっかり出来ていました。

交流会の会場。選手とその家族でとても賑わっていました。これだけの人が集まるとなると、この町においてはビッグイベントだと思います。

ここでは軽食の引き替えをしてもらいました。

こちらは鮭鍋の配布場所。本州でいえば豚汁感覚なのでしょうか。

交流会において、地元の中学校のブラスバンド部の演奏、太鼓の演奏などがあり、交流会を盛り上げていました。

本日の戦利品

約6ヶ月ぶりの復帰戦で運良く入賞できました。3位までは楯があります。

この「鮭鍋」と「軽食」の引換券が・・・ →

左上が鮭鍋、右上がゴール後にいただいた紙パックのオレンジジュース。左下がホタテごはん、下真ん中が雪印の紙パック牛乳、右下がバナナ。しっかり昼ご飯としていただきました。十分な量かと思います。

この交流会の抽選引換券が、新巻鮭になるかと思っていたら・・・ →

コンパクトカメラ(30万画素)になりました。

忘れていました。こちらが参加賞のタオルです。一般は参加料が2,500円ですので、今時珍しい、お値打ちな大会ではないかと思います。

番外編(その1)
 このサイトはグルメをテーマにしたものではありませんが、せっかく北海道に行ったので予算の範囲内で食べたものを2つほど紹介します。いずれも宿泊した紋別市内です。
 一つ目は、事前に口コミで調べたものです。ホテルから徒歩で5分くらいのところにある、「味処あづま」さんというお店です。少々値段は高めですが、鮮度といい味といいさすが地元という感じでした。生のカニを食べたのは久しぶりでした。紋別ではオススメのお店ですね。

こちらが紋別市本町5丁目ににある「味処あづま」さん。ぱっと見、寿司屋さんみたいですが、和食処といった方が正確でしょうか。

メニューの一部です。他に鍋物などもあります。思わず涎が・・・

私が頼んだのは「カニ海鮮丼(2,000円)」。かにの爪の部分が生で久しぶりに美味しいものをいただきました。他にも海鮮ものがたっぷり

 もう一軒は、ホテルから徒歩で2分ほどのところです。
 旧JR紋別駅跡地に「オホーツク氷紋の駅」が出来ました。お土産を買うために立ち寄ったのですが、お腹が減ったタイミングで目に入ったのが「らーめん西や」さんです。雰囲気としてはスーパーマーケットの中にある軽食コーナーの感じのお店です。入りやすいという意味ではとても良かったです。味もまずまず。見た感じは観光客が入る店というよりか、地元の人が入る店という雰囲気です。こちらは敷居が低い感じでよかったです。

庶民的な店屋さんです。入口で食券を先に購入します。悩みに悩んで海鮮ラーメンにしました。

こちらは私が頼んだ海鮮ラーメン(1,100円)。塩味スープはあまり好きではないのですが、海鮮ものは塩味の方が合っているとこのラーメンを食べて感じました。

番外編(その2/博物館網走監獄)
 今回移動時間が長く、観光に割く時間が少なかった。その中で、何とか時間を作って観光をしたのが「博物館網走監獄」。オホーツク地方では有数の観光地でもある。
 この「博物館網走監獄」であるが、網走刑務所内の施設の建て替えなどをする際に、実際にそこで使われていたものを移設して保存展示をしている。実際の網走刑務所は、この「博物館網走監獄」から2kmほど離れたところにあり、もちろん「博物館網走監獄」には囚人はいない。

 その「網走刑務所」であるが、高倉健が主演した東映のシリーズ「網走番外地」で非常に有名になった。ウイキペディアから、網走刑務所の歴史をひもとくと次のようになる。

 明治23年(1890年)釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所として開設。
 明治24年、160km以上に及ぶ中央道路を約8ヶ月の突貫工事で建設。約1,200人ほどが従事したが、そのうち約200人の収容者が死亡。作業中に死亡した収容者は、そのまま道路沿いに手鎖、足鎖を付けたまま埋められたという。
 明治36年に「網走監獄」に改名。この頃からは死亡者が続出するような強制労働は無くなり、農場の開墾と営農が行われるようになった。大正11年に「網走刑務所」に改名。

 網走刑務所は、映画の影響からか極悪犯が収容されているイメージがあるが、実際には執行刑期10年以下の受刑者の短期処遇を目的とする刑事施設。定員1,600人。日本最北端の刑務所である。

入口に「博物館網走監獄」とあります。

こちらは駐車場の入口の門。

左側で入場券を購入します。今回は有料のガイドツアーも一緒にお願いいたしました。

施設内でリスを見かけました。お食事中でしょうか。松ぼっくりを囓っていました。

こちらは現在の刑務所だそうです。

16畳の部屋に6人。広くはありませんが、決して狭くもない感じです。

収容者は番号で呼ばれるそうです。

こちらは独居房。

ガイドツアーをしていただいたガイドさん。見た感じ私と歳が近い感じでした。これから浴場を案内してもらいます。

従前の浴場。ここは脱衣場の入口。風呂に入ったあとは、反対側から自分の衣類を取り出すために、区画がスルーとなっています。

というのも、私語は厳禁。振り向くのも禁止。入浴3分。体を洗うのも3分と、行動が3分刻みで制限されていたそうです。

こちらは五翼放射状舎房(登録有形文化財)。明治45年に建築され昭和60年に移設されたもので、昭和59年まで実際に網走刑務所で使用されていた獄舎。中央は監視する場所で、5方向を見渡せる位置にあります。

ここは収容先の刑務所で次々と脱獄事件を起こし「昭和の脱獄王」と呼ばれた「白鳥由栄(しらとりよしえ)」がいたという部屋。

こんな感じで白鳥由栄は脱獄をしたとか。天井の窓ガラスを割って逃げようとしたところ、その物音で気がつかれてしまったそうです。

毎日出てくるみそ汁を少しずつ吹きかけ、ここを錆びさせたそうです。逃げるときは肩関節をはずして廊下に出たとか。

ここは教誨堂(きょうかいどう)。教誨というのは教えを諭すということで、受刑者に対して行う精神的、倫理的、宗教的に教化指導のことだそうです。

内装は漆喰を用いて天井に装飾を施した和洋折衷の建築様式。戦後は「講堂」と名を改め、作業のない日は映画を見せたり、慰問公演をした場所。展示品は、受刑者の書画の作品。ここで書かれたのでしょうか。非常に上手でした。

出所してから手に職を持たせようとして「電気工事士」の資格を取らせたとか。

 ここでは書き切れないが、見るべきところはたくさんある。今回はベテランのガイドさんによって私の質問にも的確に答えていただき楽しく網走監獄を見学できた。オホーツク地方に行くことがあれば、一度は必ず訪れたい施設であると思う。