第17回呉音戸大橋休山マラソン大会 参戦記 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
10年ぶりに訪れた呉。学生時代、大学の寮から毎日見ていた休山に初めて登ることができ、心の中の引っかかりが取れたような気がします。 大会も前半押さえて登ったおかげで気持ちよく走ることができました。
●上位成績(3位まで)
久し振りの呉の街
8月の富士登山駅伝のメンバーに残るための、登山マラソンに参加することにより上り坂に対する苦手意識を払拭するメンタル強化、また、身体を登りに慣れさせるというフィジカルの強化のためだ。 第2の理由としては、やはり呉(広島県)という地で開催されることにある。 呉といえば、私が大学生活(海上保安大学校)を過ごした街である。非常に懐かしい。以前にこの街を訪れたのは、34歳の時。平成8年7月7日「’96瀬戸内マリンブルートライアスロン」に出場した時だ。このときは総合5位で入賞している。第2の故郷で錦を飾ったと思っている。今回も、上位に入ることによって再び足跡を残したいと思うのも自然であろう。 皆さんは、広島県呉市という街をどの程度ご存じだろうか。 呉市のゆかりのある人といえば、ハマショーこと浜田省吾(ミュージシャン、呉三津田高校卒)、国生さゆり(元おニャン子クラブ、清水ヶ丘高校卒)、藤村富美男(初代ミスター阪神タイガース、呉港高校卒)、太田房江(大阪府知事、片山中学の時転校)、坂田明(ジャズミュージシャン、広高校卒)、末田正雄(NHKアナウンサー、呉三津田高校卒)、広岡達朗(野球解説者・元プロ野球監督、呉三津田高校卒)がいる。「ほーっ」と思う人物がどのくらいいましたか? 呉は、中心部から背後に標高737メートルを擁する「灰が峰」、東には標高501メートルの「休山」がそびえ立ち、すぐ南には呉湾が迫る平地の部分が非常に少ない街だ。 呉のキーワードは「海、自衛隊、重厚長大」だ。 主要な産業(企業)としては、戦前の軍港をそのまま引き継いだ形の海上自衛隊、石川島播磨重工業・呉工場(戦艦大和を建造した造船所)、日新製鋼、バブコック日立などの重厚長大産業が未だ主流だ。戦前は、海軍の基地だったこともあり戦前は人口が40万人を超えていた時期もあったが、終戦とともに激減。私の在学中は、23万人程度であったが、ここ数年は市町村合併で25万人台に回復している。 また、平成17年には「呉市海事歴史科学館」いわゆる「大和ミュージアム」がオープンし呉市の新たな観光スポットが出現したが、路線が変わったわけではない。昭和時代の雰囲気を醸し出す街が残っているという感じかもしれない。 そうそう、呉といえばもうひとつ。かつては、南海ホークス(現ソフトバンク)の春期キャンプが、呉市内の二河(にこう)球場で行われていたこともある。比較的温暖な気候とはいえ、キャンプ中に雪が降ることもしばしば。そのようすは漫画「あぶさん」にも書かれていたことがある。
風光明媚な音戸の瀬戸
「音戸の瀬戸」とは、本州と倉橋島の間の狭水道のことを言っている。その幅でもっとも狭いところで70m程度。音戸の瀬戸とは、平清盛が沈む太陽を扇で再び昇らせて一日で開墾したと言われている(すぐそばに清盛塚があります)。本州と倉橋島を結んでいる橋が音戸大橋で、そのループ橋は美しい橋である。今では、広島・呉〜松山・今治の重要な航路になっている。 早朝、呉駅から呉市営バスで音戸ロッジで下車後、少しばかり歩くと受付会場があった。今日は、主催者が呉走友会という一クラブが主催しているためにこぢんまりとした雰囲気だ。 今日は晴れてくれるかなと思ったが、雨が残念ながら上がりきらずにわずかに降っている。今日は公共交通機関で来場したので、荷物置き場、更衣室ともに主催者の好意に甘える。更衣室は音戸ロッジが指定されていた。音戸ロッジに来るのも、平成7年の「ワールド・トライアスロン・イン・ひろしま」で大会終了後に、妻・ゆきこと一緒に宿泊したところだ。実に11年ぶりに中に入る。
久々のマッチレース 午前10時ちょうどにスタート。 前半は登りのために様子見をしながら走ることにする。スタート直後に2人ほど勢いよく走っていった。年代も自分よりかなり若いので無理して付いていかない。 しばらくすると、集団がだんだん分裂してくる。1kmも走らないうちに自分のいる集団は3人になる。このうち1人は40歳代の人なので少なくとも負けるわけにはいかない。 往路は登り一辺倒と思われたこのコースも、1km過ぎで一旦少し下りその後登り、4kmあたりでまた少し下ってまた登り、5km前で「また下るの?」と思いつつ最後の2kmだけは本当に登り一辺倒だった。 40代の選手をマークしながら走っていると、先ほどまで痛もう一人の選手が脱落。この後ほぼ頂上までは、お互いに前に出たり下がったりの繰り返しで、久々のマッチレースといった感じで走る。 ところが、この繰り返しをしているうちに後ろから一人の選手が追いついてきた。なんと50歳代の選手だ。地元ではきっと速い選手のであろう。 頂上での折り返しは、第3位で通過。時間は30分39秒。今日は、ガスっているので眼下の風景は全く望めない。残りの二人も離れず折り返す。ここからゴールまでこのマッチレースを繰り返すのか?ところが、先ほどまで一緒だった40歳代の選手が遅れだす。逆に50歳代の選手は元気だ。このコースに熟知しているのか? 復路は、往路のコースをそのまま戻る。しかしながら往路とは違いスピード感はすごい!また、足にかかる負荷もなかなかのものだ。 下りは実は侮れない。このコースの下りは7km程度だからいいようなものの箱根のような20kmにもなる下り坂は、足に相当な負担がかかる。翌日にはまともに歩けないほどの不可が積み重なるのだ。 50歳代の選手は、下りも上手に走る。こちらも併走して走るが、その走りは見事だ!感心している場合ではないが実にうまい!2kmくらい併走していたがこちらがたまらず離れてしまった。先ほどの40歳代の選出の足音も聞こえないくらいに離れてしまったが、「先行する50歳代の選手だって腹痛で遅れ出すかもしれない。」とちょっとせこいが、そんなこともあるかもしれないと思いながらあきらめずにゴールを目指す。 残り2kmくらいだろうか。一時は50mほど離れていた50歳代の選手が近づいて見えてきた。たぶん、下りの前半で飛ばしすぎて、”脚にきた”のではないだろうか。徐々にではあるが、その背中が近づいてくる。どれだけ速かろうが、自分より年上の選手には負けられない。 残り500mでついに逆転。総合で3位、40歳の年代別では1番目にゴールをした。ゴールタイムの52分54秒は、これまでの40歳代のコースレコード55分31秒を大幅に上回る記録であった。 丸口さんとの再会 第2のふるさとである呉であるが、貧乏旅行で急いで帰るため、今日は特に誰ともアポをしていなかったが、レース終了後に張り出された記録を眺めていると「加藤さんだよね」と。「???」、「ほら、丸口ですよ。蒲刈の時に・・・」 今から11年前、広島県に上蒲刈島、下蒲刈島という島があるが、このうちのどちらの島か忘れてしまったが「スイム・ラン・イン蒲刈」という大会があり、瀬戸内海に浮かぶ離島に出かけたことがある。 このときに特に妻・ゆきこが同部屋でお世話になったのが丸口さん夫妻である。 今回は奥様は夜勤で今大会には出場されなかったが、本当に久し振りの再会でした。(すぐに思い出せずにゴメンなさい) 総括 登山マラソンということで参加してみましたが、全コース舗装路で、やはり脚の使い方が東海自然歩道などの不整地と違い思ったほど実践トレーニングになりませんでした。とはいうものの、富士登山駅伝を目指すのであれば、少なからず上り坂に対する苦手意識を払拭すべくこのような大会に参加していきたいと思います。 |