秩父宮記念 第31回富士登山駅伝競走大会 参戦記 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3年ぶりの駅伝参加。それも特殊駅伝の最右翼である”富士登山駅伝”。 いっしょに参加を呼びかけてくれた名古屋市役所走友会のメンバーに感謝!感謝! 走りは重かったものの久しぶりに走り応えのある駅伝で非常に楽しい思いをさせてもらえました。 また、わがランニング史に新たな歴史が刻まれました。
いざ出発! 大会前日の8月5日(土)、午前5時前に起床。 家族は、昨日から学童保育所のキャンプに出かけてしまっているので、今日は独身生活のようだ。 チームで山間の第6区を走る選手、サポーター&受付関係のマネージャーは、既に「先発隊」として出かけて行っている。私を始め下の方を走る選手は「後発隊」で地下鉄・本郷駅に7時30分集合。 本郷駅のすぐそばの名古屋ICから一路御殿場へ向かう。今日はいい天気だ。どういう展開になるか全く分からないが、初物のレースのためワクワクする。この感触がいい。 しかし男ばかり10人ほどの大人たちで、年齢構成も30歳〜50代半ばまでとバラエティーに飛んでいる人たちが集まるというのは不思議な光景である。まるで”大人の遠足”がごとくである。 カーボ・パーティー 予定よりやや遅れて午前11時過ぎに東名・御殿場ICを降りた。 これから御殿場駅前の「ホテル御殿場館21」で11時30分からのカーボ・パーティに参加する。大会要項には、このカーボパーティの存在が書かれていないにもかかわらず、毎年開催されているらしい。 カーボパーティーといえば、かつてはトライアスロンの定番行事だったのであるが、最近は予算のこともありほとんどの大会で縮小傾向にある。 そういう中での、久々のカーボパーティであったが、選手の雰囲気からして今ひとつパーティーらしさに欠けるところがあった。参加した方ならピンとくるだろうが、圧倒的に女性が少ない。未確認であるが、選手はどうもすべて男性であり、パーティー会場にいる女性はその家族程度であるからだろう。自衛隊員が多いというのも雰囲気を重くする。そのように感じたのは私だけだろうか・・・。 とはいえ、たいした朝飯も食べていなかったので、昼飯代わりに十分すぎるほど食べさせてもらった。もちろん無料です。
コースの下見 食事もほぼ底をついた頃、ホテルを後にした。 これからは「コースの下見」に出かける。レース前に必ずやっておかなければならないことのひとつに「コースの下見」がある。今日は特に時間に余裕があるので、必ずしておかなければならない。 今回の駅伝には、選手以外にも選手を支えるサポーターがたくさんいる。サポーターにも下見に付き合ってもらいコースをいっしょに見てもらう。選手と一体感を感じてもらうための重要な作業だ。 私の走る陸上競技場を少し確認した後、1区(5.48km、184m↑)のコースを車で走る。 競技場の周辺でも少し登り勾配であったが、富士山へ向かう登山道路は、まさしく名城公園から名古屋市役所へ向かう上り坂(名古屋国際女子マラソン30km〜31km付近)と似たような勾配である。 競合滝ヶ原自衛隊の前を通り、1区→2区の中継地点へ。 1区→2区の中継地点は、本日宿泊する「国立中央青少年交流の家」だ。2区(4.64km、345m↑)もしばらくは同じような勾配で登っていくが、途中から勾配がさらにきつくなり出す。 2区→3区の中継地点は、「馬返し」。 「馬返し」とは、登山路で道が険しくなり乗ってきた馬を返して徒歩に変わる地点を指すということらしい。今は、こんな急なところも車でスイスイ上っていくと思っていたら、なんと馬返しの少し先で観光バスがオーバーヒートして立ち往生しているではないか。恐るべし「馬返し」である。(帰りにも2台ほどオーバーヒートしている乗用車がいた) 3区(4.54km、381m↑)は、太郎坊トンネルの手前を右折して中継地点へ向かうが、ここで一息つくところがありものの、3区→4区の中継地点手前は、ロード区間の中では最大の難所の急坂が待ちかまえている。 太郎坊までくると、かなり涼しい。 競技場の標高が521mであったのに対して、太郎坊は1,431m。すでに900m登っている。気温も26〜27℃くらいであろうか。少し、霧がかかった状態で視界は悪いが、その分涼しい。
宿泊 宿泊場所は、先ほども説明した「国立中央青少年交流の家」だ。主催者側の斡旋で宿泊するのだが、斡旋なしであれば、本当の宿泊代はたったの50円(もちろん風呂もこの料金に含まれる)。これ以外に、食事代は別にかかるが、夕食は650円で食べ放題。朝食も600円程度で同じく食べ放題。 この施設が、研修目的ということで作られているので、本来は”何らかの研修”をしなければならない。ホテルと同じようにはいかないことは承知しておくべきだ。 それにしてもこのような穴場の施設が未だにあるとは驚きだ! 風呂が17時30分からだったので、さっそく一汗流そうといった者もいたが、「部屋を留守にするのも・・・」ということで、佐藤くんと部屋に残ったがこれは正解だった。 というのも、先発組は風呂にはいってしばらくすると、小学生連中が大挙して入浴に来たらしい。洗い場も横入りされたとかで、後藤くんなどは退散してきたようだ。風呂くらいはゆっくり入りたい。 夕食を18時30分〜19時ごろ済まし部屋に戻ってもテレビもないような施設なので、皆退屈で早々と床に入る。私も本を読んだりしてリラックスしていたが、21時には全員消灯したようだった。
起床!いざ出陣 当日、午前5時起床。 5区を走る平野くんほかサポーターらは、太郎坊からスタート地点の二合八勺まで歩いて登らなければならないので、私が起きたときには既に出発した後だった。前日、主催(御殿場陸上競技協会)から、「5時30分までに部屋を出てカギを返すように」と告げられていたのでいずれにしてもゆっくりはできない。 荷物を持って朝食の弁当をもらいに行く。涼しくて、気持ちのいい朝だ。 早速屋外で、皆と弁当を食べる。気がつくと富士山がくっきりと見えていた。4月から東京出張で何度か新幹線から富士山を見ようとしたが一度も見えず、先週の練習会でも見えず、ようやくくっきりと富士山を仰ぐことができた。あとから聞いたが、8合目に宿泊したメンバーらは御来光を拝んだとか・・・。 縁起がいいというのか、気合いが入るというのか。やはり富士山には不思議な力が宿っているような気がする。いざ、出陣!
富士登山駅伝競走のルーツ ここで簡単に富士登山駅伝競走のルーツを紹介しておこう。 大正2年7月25日、ストックホルム・オリンピックのマラソン日本代表である金栗四三が霊峰富士を往復するレースを企画し、第1回富士登山競走(個人レース)が開催された。 当初は 個人競走形式で順位を競い合ったが、あまりに過酷な条件下での長距離競走だったために、途中で酸素欠乏などで倒れる選手がでた。これを改善するために、大正12年からは駅伝形式となった。 昭和に入り、 第二次世界大戦のために一時中断。 昭和26年には再開されたが、運営費などの問題で立ち消えとなったのち、昭和51年から復活第1回富士登山駅伝として甦り、今日に至っている。 復活後、第7回・第14回は台風のため距離を短縮して実施された。第15回大会から「秩父宮賜杯」をたまわり、日本一の山”富士山”を舞台とした駅伝として定着している。秩父宮賜杯は御殿場市に秩父宮別邸があったことにちなんでいる。 しかしながら、第15回大会から総合優勝チームに贈られる「秩父宮賜杯」であるが、毎年自衛隊チームが優勝・独占するようになった為、平成17年の第30回大会を機に自衛隊の部と一般の部(主に大学など)の2部門に分け、さらに同コースで総合優勝を競う駅伝に変更された。自衛隊の部優勝チームには「御殿場市長杯」、一般の部優勝チームには「金栗四三杯」、総合優勝チームに「秩父宮賜杯」が授与されるようになった。
御殿場陸上競技場到着〜スタート 競技場へ移動中に携帯電話が鳴る。相手は、スーさんこと名古屋市役所・鈴木さんだ。夜半、自宅の岡崎を出発しこちらへ向かうといっていたが、先に御殿場市陸上競技場へ到着しているようだ。 今日の私の相棒(サポーター)は、名古屋市役所・後藤さんだ。私と同じように長身であるが、私とは全く違うストライド走法の持ち主。今日、この場で突然私が走れなくなっても、私以上に走ってくれる頼もしい存在だ。 競技場には6時40分くらいに到着。 先に到着していた、城野さん、鈴木さんらとしばし歓談する。 第1コール(招集)は午前7時。 出走場所の第4コーナー付近で行われる。最終的な参加チームの確認のようだ。第1コールは、参加の意思表示だけなので、ユニフォームにナンバーカード(ゼッケンのこと)が付けられていること、タスキがあることだけの確認となるので代理人でも構わない。中には、明らかに走らない女性が第1コールにきているチームもあった。
陸上競技場の中でウォーミングアップをする選手が圧倒的に多いようであるが、私はコースへと出て行く。その日に走る距離にもよるが、だいたい1〜2km程度の距離を軽く走る。コースへと走りに行くのは、スタート直後のイメージを浮かべるためでもある。レースをスムーズに運ぶ作業をするならコースを走りながらウォーミングアップを兼ねるのがいい。 7時45分には第2コールが行われた。場所は先ほどと同じ場所。 出走寸前の選手の確認だ。今度はユニフォームを装着した状態で、点呼を受けなければならない。 第1コールの時点で、タスキを改造しているチームが多くあり、陸協役員から何のお咎めもなかったので私も急遽、タスキを改造することにした。 改造の手法は次の通り。 支給されたタスキは、輪ゴムのように丸くなっている。しかしこれでは、長さを調整することができない。そこでこのワッカ(これは方言かな?)をプツリと切って、まずは1本のひもとする。その片端(A)を団子状にする。もう一方の片端(B)は、小さなワッカを作り、先ほど作った片端(A)を通す。その後、片端(B)のワッカを小さくすれば完成である。こうすれば、片端(A)を引っ張ることによりタスキの長さを調整することが可能である。余った、片端(A)はランパンの中にしまっておけばよい。
これを見送り、10分後のスタートに備えもう一度トイレに行く。いよいよ、スタートだ。今回は、レ−スを引っ張るというよりか、皆の足を引っ張らないように頑張るだけだ。いやな緊張感はない。 第1区はスピードランナー揃い 今日のナンバーカードは「38」。一列に16人(1コース2人×8コース)のため、私は3列目の内側から6番目の位置である。一番インコースではないのでまだ良いが、スタート直後の転倒には気をつけたいところだ。 午前8時10分。一般の部の火ぶたが切って落とされた。 まずは、転倒を避けるためにやや外側にふくらみながらスタートをする。タータントラック(全天候型)を走るのは久しぶりだ。 今日の計画は、3分20秒/kmくらいで入って、後は粘っていくという作戦だ。順位などは皆目見当が付かない。 トラックを約500m走ると鐘の音が聞こえる。トラックをあと1周のサインだ。 しかしながら、前にはうじゃうじゃ選手がいる。1区は、この駅伝の中では勾配の一番緩いところであり、あまり重要なポイントではないと聞いていたが、どうも違うようだ。 競技場を出て1km通過−3分16秒。予定よりやや早いが、前には大デレゲーション!
テレビ中継車は遙か彼方だ。先頭は、山梨学院大学、大東文化大学の学生連中であろうか。5000m−14分台ランナーたちとはもはや勝負にはならない。 しかしながら、登りはスピードが落ちるので一生懸命走っていても暑い。早朝は涼しかったものの、今の時点ではかなり気温が上がっているようだ。 コースはたまに勾配が緩くなるところもあるが、ほとんど一定の斜度で登っていく。 あと2km地点あたりから、前半とばしすぎたランナーがようやく少しずつ落ちてくる。こまめに拾って順位を稼いでいくしかない。 あと1km地点(セブンイレブン滝ヶ原店前)からはさらにスピードを上げる。すぐさま、滝ヶ原自衛隊の前を通り過ぎる。ここからは、2人ばかりと競り合いになって走ることになった。登り勾配であるので、スピードが上がってこないもどかしさがある。二度、三度と揺さぶりをお互いにかけながら中継点へなだれ込む!服部く〜ん頼んだぞ〜!
しばしの休憩〜選手の過ごし方は・・・。 2区の中継点では、源後くんが迎えてくれた。しばらく立ち止まったものの汗がなかなか引かない。スポーツドリンクを一気に飲み干す。 選手の控え場所である国立中央青少年交流の家のガレージは、既に大勢のランナーやサポーターで、埋まっている。源後くんもいい場所に位置取りをしてくれたので、しばしの休憩にはたいへん助かった。
しかしその反面、頂上から降りてくるタスキを待つ時間が発生する。最速の、滝ヶ原自衛隊チームでも1区の裏区間の11区を走るための待ち時間が約3時間。この時間の過ごし方もひとつのポイントとなる。 どこのチームも、まず、行うこととしては、たった今着ていたユニフォームを乾かすことである。 そのために、1区の控えとなっているガレージの前には、ハンガーに吊された色とりどりのユニフォームが干される。非常に妙な光景でもある。 さて、休憩時間中何をするか? すぐに昼寝を始める選手もいたが、サポーターにマッサージをしてもらっている選手もいれば、談笑している選手もおり千差万別であった。 私も、新聞を読んでいたり、時間があったので1kmほど離れた「セブン・イレブン滝ヶ原店」に買い物に行ったりと4時間近くの時間は非常に長かった。 とはいいうものの、途中のチームの経過は気になるところ。何度か、源後さんに頼んで各中継点の通過タイムを確認してもらったが、電波事情が悪くなかなか様子が分からなかった。 他の区間では・・・。 他の区間の様子についても、写真の提供があったので掲載しておきます。
第11区は、前後とも大差 10時30分過ぎに、第11区のコール(招集)があったようだ。 先ほど走った疲れが出てきて、少しウトウト(ぐっすり?)していたところ、源後さんが汗臭いユニフォームを持って替わりにコールに行ってくれた。感謝!感謝!である。 わがチームの、11区中継点での通過予想は12時05分。 これは、平野くんのかなり期待を込めた通過予想だ。どうも6区を終了した時点で予定より10分遅れているという。どこかでトラブルがあったのであろうか?それとも、単に見積もりが甘かっただけなのであろうか?いずれにせよ、通過順位などの情報がないので様子がサッパリわからない。 11時20分過ぎ、先頭の滝ヶ原自衛隊チームがタスキを繋いでいく。 常勝チームらしく、余裕で走っていくように見える。しかし、そのあとのチームが全く現れない。同じ御殿場の自衛隊”板妻34連隊”が現れるまで5分ほどの間があく。完全なる大差だ! しばらくすると、先ほど御殿場で見送ってくれた、城野さん、鈴木さんが現れた。「おーい!3位で通過だぞ〜」と冷やかす。2人とも太郎坊まで行って帰ってきたようだ。「名古屋からせっかく来たのだから」と。片道約14km、高低差900mのコースである。いくらゆっくりとはいえ、この暑い中よく走るなぁ〜と感心してしまう。こういう形で、富士登山駅伝を楽しむのも面白いかと思う。 12時05分に10区の中継点を通過したという連絡が入る。 当初の予定より13分遅れであるが、通過しているチーム数が少ない。昨年に比べて暑いせいか、どのチームもタイム的に苦戦しているようである。 さらに、太郎坊(8区→9区の中継点)での繰り上げスタートが12時00分から12時10分に遅らされるという情報も入った。理由は、繰り上げタスキが50本しか用意されていなく、12時になっても残っているチームが50チームを遙かに超えているからだという。主催者の見込みの甘さが露呈したようだ。 話を戻そう。 源後くんが「12時18分頃ですね。12時17分というセンも考慮しておきましょう」という。その通りだ。多少の前倒しは、当然考慮しておかなければならない。冬場と違って、待っている間が寒くないので助かる。 12時18分。 10区のランナー服部くんがやって来た。胸には、黄色のタスキをもって近づいてくる。「おつかれさ〜ん」という一言を彼にかけて、ゴールの御殿場競技場に向けて走り出す。順位はよく分からないが、自衛隊の部を除いても30チームも来ていないことは明らかだった。山間区で相当順位を上げたのだろう。 何とかひとつでも順位を上げたいのであるが、前の走者との距離は中継地点で約150m。一昔前の自分であれば3kmもあれば十分に射程距離である。 しかし、今日は違った。 順位を上げる最後のチャンスなので、最初の1kmはオーバーペース覚悟で走る。そのせいか、2km地点くらいまでにやや、前走者の「岩塚ランナーズ」の走者の背中が少し大きくなったが、今の自分にはこの辺りが限界であった。3km過ぎると下り坂にもかかわらず、少しずつ背中が小さくなっていくのが分かった。こちらが遅れだしたのである。かといってここで大きく失速するわけにはいかない。御殿場市陸上競技場まで、このタスキを運んでいく責務がある。少なくとも今の順位だけは、死守しなければならない。 朝8時頃と違って、かなり気温が上がっている。下り坂ということもあり、靴の中はかなり高温だ。マメ対策はしたものの右足の足の裏にマメの気配を感じる。心拍数は、軽く180bpmを超えている。これだけの心拍数になるのも久しぶりだ。これも駅伝のおかげだと思う。 「あと1km」の看板が見えてからが長かった。 競技場の入り口まで600m+競技場1周400mということはまだ理解できた。競技場には、きっとサポーターの後藤さんや朝から応援にやってきた城野さん、鈴木さんが待っている。彼らのためにも、早くゴールテープを切りたかった。 12時33分34秒。 スタートから4時間23分34秒で、6人の汗のしみこんだタスキを無事ゴールに持ち帰った。往路も苦しいレースであったが、復路も苦しいレースであった。スタート&アンカーという大役も無事終え、肩の荷が下りた。
歓喜の第23位! ゴール地点で、順位をカウントしている審判の後ろから順位を勘定する。自衛隊チームの100番台のナンバーを除いて勘定すると23番目だ。昨年が一般の部で42位であるから19位のランクアップである。 メンバーを補強したとはいえ、選手層が薄く、昨年の10月の時点では2チーム案もあったのであるが、終わってみれば1チームの編成でもかなり苦しんだ。これだけ選手層の薄いチームにおいて、23位という順位はたいへん立派な順位だ。十分に誇れる順位だと思う。今回の駅伝は大成功といって過言ではない。 成功した理由をいろいろ考えてみると次のことが考えられる。
この日も、国立中央青少年交流の家で宿泊したが、喜びのあまり、夜遅くまで飲み明かしたことはいうまでもない。夜中にいろんなハプニングもあったが、胸にしまっておこう。これも楽しい思い出だ。みんなありがとう!
昨年に比べて暑かった 朝晩は涼しかった御殿場も、昼の気温は名古屋と大差がないことが分かった。昨年にくらべどのチームもタイムを落としている原因は、大会当日の暑さにあったようだ。
一夜明けて(穴場紹介)
朝食後、部屋に戻ってもう一度寝ようとすると、「8時45分までに部屋を空けて」と指示が入る。この辺りが、研修施設らしい。部屋の掃除や、ベッドメーキングを済ませ、施設の係員の点検を受ける。 平野くんの提案で、富士山の見える温泉に行くことにした。その名も「ごてんば高原 御胎内温泉」だ。宿泊していた国立中央青少年交流の家から距離にして5〜6kmである。9時30分過ぎに到着したが、ただし、営業が10時からであったのでしばし車の中でオープンを待った。通常、1,300円と、ちと高い入浴料であるが、「平日1,000円の割引券」を平野くんが持っていたおかげで皆で利用させてもらった。 露天風呂あり、檜風呂あり、ジャグジーありで熱い風呂が苦手な私も十分に利用させてもらった。露天風呂からは、若干、木が多くて富士山が見づらいが、露天風呂から富士山が見えるのは何とも贅沢な味わいであった。 そして、この風呂の事務員さんで富士山やアルプスのガイドもしているというオジサンといろいろと話をしているうちに、この近くで食事のうまい店屋を紹介してもらった。ちょっと早いが、昼食はそこで摂ろうと皆に呼びかける。店の名は「魚啓(うおけい)」さんだ。 そのオジサンによると「魚屋が食堂をやっている」とか。「毎日、トラックで魚運んでくるんだよ〜!」と言っていた。 人手不足か、注文から出てくるまでには少々時間がかかったが、そのボリュームは信じがたいものがあった。これほど食べるのに一苦労したのも久しぶりだった。御殿場の穴場食堂と言っても過言ではないだろう。
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