第30回記念足利尊氏公マラソン大会 参戦記 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ランニング&トライアスロンにより全国踏破まで残り8県となったこの企画。今回は栃木県は、足利市まで足をのばしました。 栃木県といえば、観光では日光が有名ですね。また交通の便も東北新幹線の通っている宇都宮市、小山市の方がいいのですが、何せ経費節減ということで今回も往復夜行バスです。名古屋から栃木県に行く夜行バスがあるってご存じですか? さて、大会の方ですが0泊2日の往復夜行バスという荒行でしたが、参加者にも恵まれ、準備が整わないにもかかわらず年代別優勝で栃木県も踏破&制覇しました。残りは7県。未踏破県をコツコツと(じわじわと?)楽しみながら減らしていきますね。
2年前の平成17年8月、家族ツアーで九州に足を運び、初めて宮崎県を訪れることになりました。私にとっては47都道府県すべてに足を運んだ瞬間でした。 同じことを次に、趣味としているトライアスロンとマラソン(ランニング)の大会で足跡を残そうと数年前から意識しだし、少しずつではありますが踏破を繰り返してきました。残りは北から順に秋田県、栃木県、富山県、岡山県、香川県、高知県、長崎県、宮崎県の8県になりました。 旅行であれば、ハシゴをしてまとめていくことも可能ですが、何せ大会は大半が日曜開催。また、どうせいくのであれば単に参加するのではなく、可能な限り優勝を狙いながら行くように大会もそれなりに選んでいますが、何せ相手のあること。こればかりは走ってみないとわかりません。 走友会の行事や交通の便、現時点での懐具合などを勘案して、11月4日に「第30回足利尊氏公マラソン大会」に参加することになったわけです。今回の栃木県踏破で、残りは7県となりました。それにしても秋田県、富山県、岡山県、香川県、高知県、長崎県、宮崎県と虫食い状態で残りましたね・・・。 足利市とは・・・
栃木県の人口は約201万人。名古屋市(223万人)とほぼ同じくらいですね。 栃木県内の人口の多い順に、宇都宮市(50万7千人)、小山市(16万2千人)、足利市(15万8千人)、佐野市(12万3千人)、那須塩原市(11万5千人)、鹿沼市(10万3千人)、日光市(9万2千人)・・・と、足利市は県内では3番目に人口の多い街です。 ただし、今回利用した夜行バスの到着した東武鉄道・足利市駅、またアフターレースで利用したJR・足利駅がそれぞれ離れており、かつ駅前がどちらもあまり賑やかでなく、足利市の市街地がどこなのか今ひとつわかりませんでした(食事ひとつするにも意外に苦労しました)。ただし、街の真ん中を流れる渡良瀬川の河川敷はきれいに整備されていました。散歩するにはとても気持ちよさそうなところですね。
そもそも足利市の「足利」は、清和源氏義家流・足利市発祥の地から来ているそうです。 ちょっと難しいですが、清和源氏とは第56代清和天皇の皇子を祖とする賜姓皇族(しせいこうぞく=皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りたもの)のこと。また、義家とは「源義家」のことで、こちらは平安時代の武将で、河内(かわち:現大阪南部の地方)源氏の直系血族のことです。 もともとの姓は「源」ですが、源義家(八幡太郎義家)の三男・源義国(足利式部大夫)が下野国足利荘(栃木県足利市)を領有し、次子・源義康以降の子孫は足利氏を名乗るようになったといわれています。これが、この地が「足利」と呼ばれるようになった由来のようであります。 さて、大会名の冠である”足利尊氏”でありますが、生誕地としては綾部説(京都府綾部市)、鎌倉説、足利荘説(栃木県足利市)の3説があるようですが、定かではありません。足利家で最も有名になった子孫である「足利尊氏」の名前を大会名にちゃっかり付けているようでした。 0泊2日。得意の夜行バス
ところでその夜行バスですが、名古屋から栃木県に行く夜行バスがあるのをご存じですか?群馬県前橋市に本社のある「日本中央バス」という会社が、群馬と関西を結ぶ夜行バスを運行しています。群馬と関西との乗客需要は決して大きくないのでしょうか、その夜行バスですが経由地がユニークです。 (1)栃木(佐野)→大阪(富山・金沢・京都経由) (2)群馬(館林)→大阪(京都のみ経由) (3)群馬(館林)→大阪(名古屋・奈良経由) 私は、今回利用したのは(3)の路線のもので、大阪に行く途中、わざわざ名古屋に立ち寄るというものです。 往路は乗車率が70%程度でしたが、金山南口から乗車したのは私を含め2名でした。立ち寄ってくれるだけ、有り難いですね。金山から足利市まで乗り換えなしで直通は非常に助かりました。おまけに往復でわずか13,800円。往復夜行バスで疲れましたが、金銭的に使わざるを得なかったですね。 大会会場 今回のメイン会場は、足利市陸上競技場。平成11年3月にリニューアルオープンしたようで、比較的きれいである。JFL所属の栃木SCが時々ホームゲームを主催するらしい。 事前の情報をあまり仕入れることもなくやって来てしまったが、結構、賑やかそうな感じの大会だ。 受付をしてプログラムを貰う。 参加者の名前を見るが、当然のことながら知っている人は全然いない。非常に気楽な気分だ。 貴重品預かりがあったので、サイフと一緒に帰りのバスのチケットを預ける。その後スタンドに陣取り、開会式の様子を眺める。フィールド内には、大会キャラクター?がデンと構えている。 今日の天気は晴。朝方寒かったが、徐々に気温が上昇してきている。マラソン大会としては非常に良いコンディションである。初めてでかけていったところでは、その印象は天候によって大きく変わるが、足利市は間違いなくいい印象である。
レース開始! ハーフマラソンの部がスタートしてから10分後に10kmの部がスタートする。 ハーフマラソンの部は、第4コ−ナー付近からスタートするが、10kmの部は第1コーナー(決勝点)からのスタートである。したがって、ハーフマラソンの選手がすべて通過してからスタートラインに並ぶことになる。ハーフマラソンの部のエントリーは784名であるが、10kmはそれよりも若干少ない661名。多すぎず、かといって少なすぎず私の好きな500人程度の人数に近い。あまり早い時間から並ぶ必要もなく、また、スタートで混雑することもなく、かといって少なすぎるのは、走り始めるといきなりバラバラになるので寂しい。500人程度が一番気持ちがいい人数であると思う。
9時40分。足利市に足を降ろして約3時間後にピストルが鳴る。スタートダッシュをしていく選手がいなく、私にとっては非常に都合のいいペースとなった。 白バイが先導する。その後ろには私を含めて5人がまとまって走る。明らかにペースが遅い。私を除く4人は明らかに20代から30代の選手たちだ。500mほど行くと、やはり遅すぎると感じたのか、4人の選手たちは徐々にペースを上げ出す。少しばかりのペースアップなら着いていけるが、先は長い。レースはまだ序盤だ。少し様子見をすることにする。 スタートから1.5kmほどで4人のうち一人の選手が徐々に遅れだし、私の方に近づいてくる。2kmほどでその選手に追いつくが、彼の息づかいは結構荒い。一瞬のうちに抜いていくが、そのほかの3人とはどんどん距離が離れていく一方だ。 このあたりから10分前にスタートしたハーフマラソンの選手に追いつき出す。道路は2車線が通行止めになっているので、中央線を越え、右側からハーフマラソンの部の選手を抜いていく。 4kmを超え、左折してハーフマラソンの選手と別れる。しばらくは10kmの部の選手だけで単独で走る。 左折時に後方を確認したが、先ほど抜いた選手とは30mほど距離があいているようである。しかしながら、前の3人とはすでに300mほど離れてしまった。その3人も1人と2人に分裂しているのが、遠くからも確認できる。応援もポツリポツリだ。 7kmを過ぎると5kmの部の選手たちが合流してきたので、再び賑やかになってきた。JR両毛線の下をくぐること2回と、渡良瀬川の支流の袋川にかかる袋川橋に差し掛かるところ(4.5km地点くらい)を除けば、コースはほぼフラットといってもいい。むしろ、このアップダウンが、適度なアクセントといってもいいくらいだ。 最後2kmくらいは、5kmの部の選手や3kmの部の選手たちとごちゃごちゃになって競技場になだれ込みゴール。タイムは35分01秒と練習不足のわりには、まずまずといったところ。年代別では、ちゃっかり1位をいただく結果となった。(ごっつあんです!) アフターレース(その1−わたらせ渓谷の紅葉狩り) 費用を安く上げるために往復とも夜行バスにしたが、とはいえ東武鉄道・足利市駅から帰りのバスが出発するのは21時。せっかくここまで来たので、少なからずこの近辺を満喫する計画も事前に立てておいた。 ひとつは、この時期として楽しみたいのが紅葉狩り。 足利市の隣街である群馬県桐生市から渡良瀬川沿いを上流に遡って走っている「わたらせ渓谷鉄道」という第3セクターの鉄道があるが、そのネーミングからして車窓より紅葉が楽しめそうである。調べたところ、途中の駅には温泉もあるようなのでそこにも寄ってひと風呂浴びたいところであったが、何せ列車が概ね90分に1本程度。行動についても、精査しておかないと大変なことになるので温泉についてはあきらめ立ち寄るところは、この次のタイトルである「足尾銅山」のみとした。
今回は桐生を13時35分に出発する列車に乗る。 紅葉狩りのシーズンのせいか、ローカルな割には3両編成であった。かといって、満員でもなくがらがらでもなくほどよい混み具合であったが、途中からバスツアーの観光客がどかっと乗り込んできてオバちゃんたちがぺちゃくちゃしゃべり出すので興醒め・・・。先回りしたバスが待っている駅で下車していったようであるが、一般乗客の私にとっては少々困惑した。 群馬県桐生市の海抜は80〜100m前後。渡良瀬川を遡りながら再び栃木県に入るが、終点に近い足尾(現在では日光市足尾町)では海抜650mほどになっており、気が付かないうちに徐々に川をまさに遡っていた。 車窓からの紅葉もまずまずであった。飯田線のような秘境ぽさはなかったが、秋の深まってきたこの時期にビールを片手に紅葉を楽しむのもなかなかオツなものであった。
アフターレース(その2−足尾銅山)
足尾銅山は、1550年頃発見されたといわれており、江戸時代には銅の採掘で非常に栄えた街である。当時の代表的な通貨である寛永通宝も、ここの銅を用いて鋳造されていた。 江戸時代末期には、一時的に閉山状態になっていたが、19世紀末、古河市兵衛が足尾銅山の払い下げを受け、経営に着手し有望鉱脈を発見(大当たり!)。その後探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見され、20世紀初頭には日本の銅産出量の1/4を担うほどの大鉱山に成長した。 古河市兵衛とは、築地製糸場を興し、生糸貿易によって財を成したり、このように 足尾銅山の払い下げを受けて、廃山同然であった銅山に近代的な開発を積極的に行い、銅生産量を急増させ、財を成したりして大儲けをし、現古河グループの基盤を作った人物だ。いわゆる古河財閥の創始者である。 しかしこの足尾銅山が日本の公害の原点である足尾鉱毒事件を引き起こし、下流域の住民を苦しめることとなったこともまた有名な話しである。 通洞駅から徒歩5分ほどで、この足尾銅山の観光ができる施設「足尾銅山観光」がある(大人800円、小・中学生500円)。 施設といえば、15分おきに発車するトロッコに乗ってまずは、鉱山を体験(探検)する。ものの数分なので意外にあっけない。その後、トロッコを下車し江戸時代から昭和にかけての銅の採掘方法の変遷を鉱山内の展示物で見ていくという仕組みだ。 外に出ると、採掘された銅を用いて、江戸時代にどのように貨幣を作っていたかを模型で見せてくれる施設がある。鋳造現場から銅を持ち出さないように、作業者は一旦すべて全裸にされていたというところが面白い。見学が終わるとお待ちかね、土産物屋が並ぶ施設が待ちかまえているというものだ。こういう歴史に非常に興味のある長男・かずたかには面白い施設だったと思う。いつかは親子でもう一度訪れてみたい施設であった。 今年、島根県の石見銀山が世界遺産に登録された。地元では、この足尾銅山を世界遺産登録しようと運動が始まっているようだ。駅の待合室などには、「足尾銅山を世界遺産に!」というポスターが所々に貼ってある。しかしながら、現時点においては暫定リストにも入っていないので、まだまだ先の長い話しのようだ。
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