第14回ほこたハーフマラソン大会 参戦記 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
コース紹介(コースガイド) → こちらを参照してください。(第13回大会に同じ) ホテルさわやと徳川慶喜 大会前日の12月15日(土)の鉾田の最低気温は、−3.7℃。この日の最低気温は−4.9℃と2日続きで冷え込んでいる。盆地であるならともかく、比較的海に近いような鉾田でここまで気温が下がるとは思っていなかった。大会当日は雲が多めながらも、日差しがある天候で、この日もおそらく放射冷却で気温が下がったに違いない。 今回は、大会会場そばの「さわや」に昨年と同様、宿泊をしたので朝はゆっくり出来る。ちなみにこの「さわや」であるが、徳川慶喜が宿泊した宿とホテルの前に表記がある。このことについて調べてみると次のようなことがわかった。 「1868(慶応4)年1月3日〜1月6日の鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は、同年4月11日に江戸城を明け渡し上野寛永寺で,、その後同年4月15日に水戸弘道館へ移って謹慎している。同年7月20日、謹慎していた水戸弘道館から隠居先の駿河の宝台院へ向かう途中、鉾田の田山家で宿泊している。鉾田の田山家に宿泊した慶喜一行は、翌日の7月21日、ホテルさわやの裏を流れる川の田山河岸から船で北浦を経て銚子へ向かい、銚子から海路を駿河へ向った。」とある。 なるほど、徳川慶喜が泊まったとあるので、なるほど準備などさぞかし大変かと思いきや、大政奉還をして、何の権限も無くなった徳川慶喜が、隠居先の駿河(静岡県)に向かう途中、泊まったのが鉾田の田山家だったということである。徳川慶喜が第15代将軍の政権時代に泊まったのであるならいざ知らず、政権から転落して一般人(とまではいかないかもしれないが・・・)になってから泊まったということであれば、さほど自慢のネタにはならないかもしれない。
全く勝負させてもらえず ウォーミングアップ、ストレッチなどをして10時過ぎにスタート地点へ向かう。この大会は、スタート場所をゴールの予想タイムごとに分けてプラカードを持った係員の前に並ばせるという方法を採用している。こうなれば焦ってスタート地点に行くことはない。若い子に混じって20分以内というところに並ばせてもらう。 ハーフマラソンが出発したあとの10時10分に一斉にスタートをする。 スタート直後はやや下り坂。それもあってか、スタート直後のスピードは速い。今回はほぼ最前列に並ばせてもらったので、後ろからやってくる同年代の選手も視野に入りやすい。ナンバーカードが2枚支給されているので、私と同年代の「5300番台」の選手の確認も容易だ。 スタートしてしばらくすると、昨年優勝したI田さんが左手に見える。その後ろを、5300番台の選手がくっついている。私も含めて1kmくらいまでは3人で走って行ったが、私にとっては少々ペースが速めであったので、私の方がペースを落として離脱する。1kmの通過タイムは3分40秒。このタイムで押していければ、トータルで18分20秒であるが、今はそれだけのタイムを出すだけの練習が出来ていない。
後半は、前から落ちてくる選手もなく、また後ろから抜いていく選手もなく「今日はこのままゴールするのかなあ」と思っていたところで残り400mくらいから始まる上り坂が現れる。どの部門においても、ゴール前のこの最後の上り坂が勝負のポイントになるのは間違いなく、前半からやや突っ込んだ感じの私にとっては、脚がパタッと止まった感じになってしまった。
この坂の中盤を過ぎた頃であろうか、後ろから一人のランナーが全く次元の違うペースで登って行くではないか。ナンバーカードは「5300番台」。背中に目がなかったということで反省すべきではあるが、追いつくだけの余力はなかった。タイムは19分57秒。辛うじて20分は切ってきたが、順位は昨年と同様年代別で4位であった。 今回のレースで平成30年中のレースは全て終了。何とか入賞にはこぎ着けたものの、今回も優勝争いからは全く縁のないレースとなってしまった。いろいろ反省することはヤマほどあるが、「来年こそは・・・」と巻き返しを誓った次第。
本日の戦利品
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