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令和2年1月6日(月) ~ No.1165 今年の目標 ~ |
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気がつけば令和2年も5日が過ぎ、年末年始の休みも昨日が最終日でした。今日と明日は年始早々、岡山へ出張です。 さて話を戻しますが、年末年始の休暇(12月28日(土)~1月5日(日)の9日間)中に、忘年会2回、新年会2回、1泊2日の家族旅行ありと行事は目白押し。その間に2月に神戸市内で依頼されている講演資料の作成など、休暇中も相変わらずバタバタした状態でした。令和2年になってもこの状況は変わらないかもしれませんが、もう少し効率よく生活をしていこうと考えています。 さて冷静に今年の目標をいくつか考えてみました。仕事のことはさておき、私生活を中心に5つの目標を考えました。 (1)朝練を忠実に実行 (2)大会のない休日は、山トレの実行 (3)月に1回の帰省 (4)優勝は5回以上、入賞は10回以上 (5)月に1冊以上の読書 詳しい説明は省略しますが、このHPの読者の皆さんであればこれらの目標に対して「ははーん、そんなもんか」と思うかもしれませんね。あまり成長の跡はないかもしれませんが、簡単そうで意外と簡単ではないこの5つを今年の目標として頑張ってみようと思います。時々「目標の進捗はどうですか?」と声かけしてくださいね。年末に成果の度合いを検証してみましょうか。 |
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令和2年1月5日(日) ~ No.1164 本年もよろしくお願いいたします ~ |
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城山八幡宮にて。今年もよい年になりますように |
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令和元年12月31日(火) ~ No.1163 令和元年を振り返って ~ |
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京都三昧(その2)が残っているところですが、令和元年も本日で終了してしまうので、先に一年の反省をしてみたいと思います。 清水寺の住職ではないですが、今年の私の漢字は「憂」だったような気がします。何となく晴れることがなく、曇った日が続いたようなそういう気分で一年を過ごしたのかなという気がします。また、この歳にもなると体もなかなかいうことをきいてくれないので、楽しいことよりも辛いことが多いような気がしますが、中でも今年は (1)母親が他界してしまったこと (2)二度の故障で、まともに走ることのできた次期が僅かだったこと が全てだったような気がします。 さらに小さなことでは、長女・ゆかこの留年もありますが、一方で、長男・かずたかの就職の内定もあり、2020年東京オリンピックのチケットが3つも当選!喜ばしいことが全くないこともありませんが、全体的に見ればプラスのことよりもマイナスの出来事が多かったような気がします。 来年はもちろん私にとっても、家族にとっても、皆さんにとってもいい年でありたいと思っています。 明日か明後日には、一年の計画を立てて公表しますので楽しみにしておいてください。ここ数年は年始の目標を立てることをサボっていましたが、自分に対して厳しくするという意味もこめて公表したいと思います。 来年もこのサイトにちょくちょくお立ち寄りお願いします。それでは皆さん、よいお年をお迎えください。
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令和元年12月28日(土) ~ No.1162 京都三昧(その1) ~ |
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先週末の12月21日(土)、22日(日)にカミさんと京都に行ってきました。元々、カミさんが遊びに行く予定だったものに私がくっついていった感がありますが、2日間で結構充実した日々でした。次回は、母親の納骨(浄土真宗・東本願寺/大谷祖廟)を兼ねて行くことになりそうです。 【12月21日(土)】 前日の帰宅が遅かったにもかかわらず、午前6時過ぎに出発。最初の目的地は、長男・かずたかのマンション。先月亡くなった母親の車椅子をかずたかがオークションに出したところすぐに売れてしまったそうです。今回はその現物を名古屋→京都へ輸送すること。上社IC→(名二環・伊勢湾岸道・東名阪・新名神・名神高速)→京都南ICと経由してかずたかの住むマンションには8時35分頃に到着。寝ていたところを叩き起こしてその場で渡し用務完了。この日は、就職予定の企業の店舗での研修とかで昼中拘束されるので、夕方にまた会うということで一旦解散。
次に向かったのは長女・ゆかこの住むマンション。長男・かずたかのマンションからですと、自動車では15分ほどの距離です。こちらでは、カミさんが何やら作り置きをしてきたものを渡したりして最初の目的は完了。カミさんと私が清水寺に行くので誘ったところOKということで、親子3人で清水寺へ。清水寺には今年の漢字「令」が12月21日(土)まで飾ってあるというので、それを見るのが今回の大きな目的です。 清水寺にやってくるのは何回目か勘定できないくらいの回数になってしまいましたが、修学旅行シーズンでなくてもここは混んでいますね。清水寺は長期の改修中で、あの「清水の舞台」も荘厳な眺めとならず少々残念な感じでした。
二条に戻ってきてお昼ご飯を食べたあと向かったのは嵐山です。渡月橋でも有名な観光スポットですが、竹林の小径が夕方になるとライトアップされるというので、「それを見に行こう」ということになりました。こちらは、長女・ゆかこが京都の知人から紹介を受けた場所ですが、京都の人がいいというくらいのこともあり、なかなか素晴らしいものでした。 夜は京都駅前で長男・かずたかと合流し夕食。相変わらずよく食べますわ。わが長男は・・・。初日は以上。
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令和元年12月25日(水) ~ No.1161 大阪出張とクリスマスパーティー ~ |
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12月23日(月)、日帰りで大阪に出張に行ってきました。行き先は大阪大学。モノレールの阪大病院前で下車してすぐです。 阪大での出張内容はさておいて、道中、モノレールからは1970年(昭和45年)に開催された大阪万博開催時の象徴である「太陽の塔」が見えました。大阪万博といえば、日本で初めての博覧会であり、日本で開催された万博において最高の入場者数を誇った万博です。 私といえば、当時、小学2年生。夏休みにでも連れて行ってもらえるかと期待感はありましたが、列に並んだりするのが嫌な父親の反対にあって、行ったのは岐阜県の山奥。確かに涼しかったのですが、あの一大イベントを避けるとは・・・。結局、行けず終い。夏休みが終わって、初めて登校してきた日に、万博の自慢話をしていたクラスメートが羨ましかったことをいまだに覚えています。ところで万博の目玉の「月の石」はどこへいたのでしょうか。
出張を終えて、この日は名古屋の自宅に戻ってきました。 夕方からはカミさんと老夫婦のクリスマスパーティ。ケーキが好きな私のために松坂屋で買ってきたそうです。小さいながらも確かに美味しかったです。クリスマスプレゼントは、長女・ゆかこに頼んでいましたがこの日に間に合わず、後日手渡しをすることにしました。今年も年中行事を無事消化しホットしたところです。
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令和元年12月20日(金) ~ No.1160 週末は京都、月曜日は大阪出張 ~ |
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今年も残すところ、あと10日ほどになりました。 今年も無事にボーナスが出て、私大に通う2人の子どもたちへの仕送りも何とか続けられそうな今日この頃です。今週の月曜日に名古屋から上京したばかりですが、本日も名古屋へ帰省です。明日明後日はカミさんが京都にいくというので、私も一緒に出かけ京都で過ごしますが、日曜日のうちには一旦名古屋に戻ります。そして月曜日は京都のその向こうの大阪へ出張。似たようなところを行ったり来たりです。今月も慌ただしく過ごしているうちに終わりそうです。今年の反省と来年への抱負はもう少し後に発表しますので、しばらくお待ちください。 さて、先ほど説明したように、週末の土日はカミさんと子どもたちのいる京都へ向かい、向こうで過ごします。12月21日(土)まで、清水寺で今年の漢字「令」が飾られているようなので、それも見てこようと思います。 また、ランナーはご存じかと思いますが、今度の日曜日は京都で高校駅伝が開催されます。いつもはテレビで見ているところですが、偶然にもそのタイミングで京都市内にいますので、せっかくなので高校駅伝も少しは観戦したいと思います。時間があれば、大谷祖廟に出かけて、母親の納骨もしてこようと考えています。今週末の帰省ではほとんど名古屋にいませんが、たまには京都でいつもと違う空気を吸ってきます。
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令和元年12月17日(火) ~ No.1159 四十九日の法要 無事終了しました ~ |
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先月14日に母親が亡くなりましたが、昨日(16日)、蒲郡市の専覚寺(浄土真宗・大谷派)において、四十九日の法要を行いました。今回も集まったのは家族4人。16日(月)というところがミソで、家族がなかなか集まらないことを象徴しています。土日であればすぐに集まりそうで集まらないのが加藤家です。 当初は名古屋で行う予定でしたが、会場の都合がつかず、今回はそのままお寺で行うことにしました。お寺といえば、本堂が広く暖房もないイメージですが、そこは住職もよく承知しているところのようで、昔ながらの灯油ストーブをいくつか用意してくれて、それなりに暖かい状態で執り行われました。 住職も先代からすっかり若返って、現代風の感じのいい住職です。法事が終わってからは、意外や意外にマラソン談義になってしまいました。どうやら住職はマラソンがお好きなようです。職業柄土日はほぼ法事のようですが、一年に一度だけ「静岡マラソン」に出場されるようです。2日に一度程度しか練習ができないようなので、タイムはそれなりのようですが、2日に一度しか練習できなくても早くなるコツを聞かれてしまいました。こればかりはなかなか難しいところですかね。 法要のあとは納骨。そして母親のみならず家族みんなが好きな「マルナカ」でランチ。長男・かずたかは、生前母親が好きだった「ヘルシー森のきのこ丼」を注文し、祖母を偲んでいました。 今週末は京都に行く予定ですので、その際に本山である東本願寺の大谷祖廟に納骨に行ってこようと思います。しばらくは、こういうことが続きそうですね。
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令和元年12月13日(金) ~ No.1158 今日から帰省 ~ |
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気がつけば12月も約半分を過ぎようとしています。(※ そういえば、今日は13日の金曜日ですね不吉な日?)今日から17日(火)の朝まで帰省の予定です。 今回は、先月14日に亡くなった母親の四十九日の法要が主たる目的です。いわゆる忌明けとするための一区切りです。坊さんの都合もありますが、いろいろと調整したところ、12月16日(月)に行うことになりました。 さて、話は変わりますが、今年は「令和」という新時代になりました。今年を表す漢字も「令」になりましたが、私にとっては母親を亡くした年であり、また、2回の故障でかなりの時期を走れない状態で過ごしたので、正直、あまりいい年の感じはなかったですね。私の今年の漢字については、また、年末報告したいと思います。 また来週の金曜日も帰省をしますが、来週は来年3月の卒業を控えた長男・かずたかの京都の下宿から少しばかりですが荷物を引き上げてくること、先にご紹介した今年を表す漢字「令」を見るために清水寺に行くことなど、半分くらい気分転換が目的です。 年末年始もバタバタと旅行に出かけることに急に決まりましたが、まだまだ当分の間は慌ただしく過ごすことになりそうです。
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令和元年12月10日(火) ~ No.1157 陣馬山~高尾山縦走 ~ |
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平成31年4月20日(土)以来、令和になってから初めて陣馬山~高尾山を縦走してきました。約8ヶ月ぶりのこのコースの縦走です。 今年は、1月と10月に肉離れを起こしたため、長いランナー生活の中でもかなりの期間を休養・リハビリに充て、まともにレースに出場したのが4月~7月と”にわか”ランナー的な一年でしたが、現在は来年に向けて鍛え直しているところであります。 とはいうものの、11月も葬儀などでバタバタしていたこともあり、本格的な練習とはほど遠い状況にあります。下記の「行程と所要時間の比較」を見てもらえば一目瞭然ですが、今回はほぼ歩き通したこともあり、前回と比べると1時間以上も時間を要しています。それでも、結構、脚はガクガクなので、しばらくの間は週末、こういうことを繰り返す必要があるかと思います。 さて、この日の陣馬山~高尾山口ですが、天候も曇りで肌寒い一日ということもあり、すれ違う人も極めて少なく、これほど閑散としていたのは初めてでした。渋滞するところもなく、縦走するのは楽でしたが、逆に人が少なすぎて小仏城山の茶店もお休み。恒例のなめこ汁にもありつけずメリットもあれば、デメリットもあった縦走でした。
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令和元年12月8日(日) ~ No.1156 オジサンたちの忘年会 ~ |
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一昨日の12月6日(金)ですが、昼中は埼玉県さいたま市に調査に出かけていましたが、調査も2時間程度で終了し、夕方には何とかオフィースに戻ってくることが出来ました。 この日は、大切なオジサンたちの忘年会があるので参加しなければなりません。場所は、地下鉄日比谷線・神谷町駅のそばの某所です。 このオジサンたちですが、 このHPに何回も登場してくる都道府県のOBらです(今日は、企業の方は帰られたそうで。都道府県OBばかりでした・・・)。退職されてから、そこそこ時間が経ってしまっているので、現在は無職の方が多いですね。 昔話に花を咲かせるだけでなく、あたらし話しもちらりほらり出てくるところが素晴らしいですね。知恵袋としていつまでも活躍、またお元気に過ごして欲しいと思います。(アクが強い方も中にはいらっしゃいますが、付き合いも長いので慣れました)
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令和元年12月7日(土) ~ No.1155 松山出張 ~ |
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昨日の那覇出張に続き、松山(愛媛県)出張のレポートです。 正確には、今治市付近で一カ所、松山市内(こちらは愛媛県庁ですが)の出張の合計2カ所の出張に行ってきました。プライベートで愛媛県には、ここ数年出かけていますが、出張となると少々行動の仕方は変わってきますね。 【11月25日(月)】 東京から見て名古屋も松山も西の方であることには変わりがないので、11月22日(金)に一旦名古屋の自宅に帰り、週末を名古屋で過ごす。今回の今治・松山の出張は、事実上、名古屋が起点となる。 東京から松山へは飛行機で移動が一般的になるが、名古屋からとなると微妙な距離で、今回は陸路で今治、松山へ向かう。このルートで今治、松山に向かうのは初めてで、特に瀬戸大橋を鉄道で超えるのは初めてであった。高速道路と鉄道が二階建てとなっているのは構造的に面白く、コストも抑えたものであるかもしれないが、景色としては今ひとつの感はあった。しかしながら時間はかかったものの、飛行機とは違い車窓の移り変わりは楽しめた感はある。 この日は、今治市付近で用事を済ませ、松山市内で宿泊。この日は昨年に続き「えひめ共済会館」に宿泊。昨年に続きニパチで打ち上げ。
【11月26日(火)】 早朝、ホテルから道後温泉まで、市電の線路に沿ってウォーキング。本来であればジョグをするところであるが、ここは慎重にウォーキングで終了。昨年はジョグで済ませたコースをウォーキング置き換えたこともあり、景色の流れ方がゆっくりで、昨年以上にいろいろなものがゆっくりと見えた。そういう意味ではウォーキングも悪くはないと思う。 午前中は愛媛県庁で所要。終了後は、昨日やってきたルートをそのまま巻き戻すように戻っていく。 昨日は、「特急しおかぜ」は空いていたが、この日は新居浜から乗客が増え、昨日に比べると乗客は少し多いような気がする。岡山から新幹線で東へ向かうが、名古屋で途中下車。東京へは明日のマイ・通勤新幹線(のぞみ204号)で東京に戻ることにする。
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令和元年12月6日(金) ~ No.1154 那覇出張 ~ |
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気がつけば師走。一年経つのは早いですね。 先月のことになりますが、那覇と松山に出張してきました。沖縄に出かけるのは久し振りでした。松山はプライベートでもここ数年は立ち寄り場所にはなっていますが、宿泊はなかなかしません。トピックとなることについて、いくつかご報告いたします。 【11月20日(水)】 この日から2日間は沖縄出張。沖縄へやってくるのは、国盗りを達成した平成27年2月以来、4年と9ヶ月ぶりとなる。早いもので、もうそんなに時間が経過しているかと思う。 今回の沖縄出張の目的は事故調査。もちろん行き先は伏せるが、那覇からはさほど遠くはないところ。 仕事で沖縄にやってくるので、本来であればオフィースに近い、羽田空港から出かけるはずであったが、昨日まで特別休暇(忌引き)だったため、今回は飛行機のチケットを変更してセントレア(中部国際空港)から那覇へ向かう。他に同行者が2人いるので、この2人とは那覇空港で待ち合わせすることになる。
調査は午後からなので、まずは昼ご飯。ホテルと同じビルに入居しているステーキハウスが目に入ったので、昼食はここで決定。いろいろ歩き回れば安い店もあっただろうが、コスパはまずまずだったので、お昼ご飯は満足。そして、調査後、夕方からは国際通り付近をウロウロ。同行のYさんが4軒ほどお店を調査してくれたこともあって品定めをしたが、最後の4軒目の店が一番良さそううだったのそこに決定。このお店はなかなかよくてみんな気に入ったところ。ただし、閉店が21時30分と少々早かったのが残念なところ。
【11月21日(木)】 この日は、東京へ戻るだけの日であったが、那覇空港を出発する便が午前10時10分なので、早朝、首里城まで出かけてきた。脚の具合が今ひとつなので、JOGで行きたいところをウォーキングで行くことにした。冬なので日の出は遅いが、西日本でもまた西に当たる沖縄なので、日の出はかなり遅い時間だ。早朝、6時40分頃に首里城に着いたもののまだ薄暗く、焼けてしまった首里城は目視では確認できなかった。あちこちに、警備員が立っていて中には全く入れない感じ。再建に向けた記帳所というものもあったが、さすがに朝早すぎてまだ開いていなかった。 昨日は11時過ぎに那覇空港へ到着。そしてこの日は10時過ぎに那覇空港を立ってしまったので、沖縄の滞在時間は24時間に満たず。やはり休みを取って、もう少しのんびりと遊びたいところだと感じた次第。
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令和元年12月3日(火) ~ No.1153 水素保安セミナーご参加ありがとうございました ~ |
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12月3日(月)、4日(火)の2日間に渡り、KFC両国において水素保安セミナーを開催いたしました。多くの方にご参加いただきましてありがとうございました。また、講師の方々におかれましては、いろいろと無理なお願いを快く受け入れしていただきましてありがとうございました。 2日に渡り実施したセミナーですが、大きな混乱もなく終了したことをまずはご報告させていただきます。次年度開催する場合は、引き続きご参加のほどよろしくお願いいたします。
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令和元年11月22日(金) ~ No.1152 葬儀も無事終わりました ~ |
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通夜、告別式のいずれも家族葬で執り行いました。供花、弔電を発出されました方々、またメール等で弔意を表していただいた方々には厚く御礼申し上げます。それでは、ここ一週間の出来事をまとめてみました。 【11月14日(木)】 午前2時頃、暗闇の静けさの中、スマホのけたたましい着信音が鳴る。ここ一週間くらいは、いつ何時にも電話に出られるように待機していたせいか不思議と驚くこともなかった。発信者はもちろん母の入所している施設から。「加藤さんですか。午前1時55分頃息を引き取られたようです」と施設長。すぐさま私が動けないので、自宅に電話してカミさんに代わりに施設に行ってもらう。カミさんは、夜中にトコトコと歩いて施設に向かったようだ。 私は始発(5:00)の地下鉄、東京駅を始発(6:00)の「のぞみ1号」に乗り継ぎ名古屋には7時34分に到着。一旦帰宅して、自動車に乗って予約していた東山愛昇殿に向かう。東山愛昇殿には、先月、打ち合わせをした館長のFさんが待機していた。カミさんは仕事もあるので出勤して不在。8畳ほどの部屋にちっちゃな亡骸が静かに横たわっていた。いつかは来るとは覚悟していたが、とうとうその日がやってきたと・・・。
家族がなかなか集まらないので、通夜は土曜日、告別式は日曜日に行うことで決定。檀家となっている蒲郡の専覚寺とは日程の調整がつかず、今回は愛昇殿を経由して大心寺に一連のおつとめを依頼することとなった。 午前9時頃から始まった打ち合わせ。終了したのは午前11時過ぎだった。まずは千種区役所へ死亡届を提出。これをすまさなければ火葬も出来ない。 ながた屋で急いで昼食を済ませ、午後1時から枕経をとなえてもらう。午後3時からは湯灌の立ち会い。納棺師さんからは「体がきれいですね」と母のことを褒められた。入院もせず点滴治療など受けなかったから、こういう状態で亡くなったのであるが、最近では珍しいことなのか・・・。考えてみれば、父も義父、義母もいずれも病院で亡くなっている。自然な形で息を引き取ってもらうのが理想と思っていたので、それはよかったのではないかと思う。この日は、愛昇殿で宿泊。
【11月15日(金)】 この日は、母の入所していたグループホームで事務的な手続きを行う。平成27年4月に入所してから、ずっとこの施設の責任者であったHさんには大変お世話になった。驚くことに今月一杯で、この施設からいなくなるという。退職なのか、それとも異動なのかは聞かなかったが、一貫して面倒を見てもらえてよかったと思う。 一番最初の出会いは、平成27年の3月末頃、蒲郡の当時母親が入所していた老人健康保険施設までわざわざ面談に来てもらったところまで遡る。名古屋から自動車で片道1時間半ほど係るにもかかわらず、嫌な顔一つせずに来てくれたことはいまだに恩義に感じる。あれから4年半。この施設から母親もいなくなるが、施設長のHさんもいなくなる。何となく一区切りついたという気がする。 また、その後は法名を付けてもらうために、加藤家の位牌を持って蒲郡の専覚寺に向かう。浄土真宗では「戒名」のことを「法名(ほうみょう)」という。専覚寺の住職も忙しいようで不在だったので、用件を住職の母親に伝えておく。専覚寺にやってきたので併せてお墓参りをし、墓前に母が亡くなったことを報告する。 専覚寺での用事を済ませ、少しばかり実家に立ち寄る。棺に一緒に入れそうなものを探して集め、急いでUターンし名古屋に戻る。
自宅で少し眠くなって横になっていたところ、玄関のチャイムが鳴る。病院での実習中の長女・ゆかこが早々と京都から帰宅。実習で担当していた患者さんが午前中で退院してしまったので、午後の実習が免除になったそうだ。 通夜の際に、12枚ほどの写真を使ってポスター2枚にして飾ってもらえるということで、長女・ゆかこと一緒に写真を探す。「とりあえず、ピックアップして焼いてから12枚を決めよう」ということになった。その数約130枚。とりあえず、データをUSBに入れて夕方コンビニでプリントをする。 実家で写真を探すのが大変だったので、とりあえず子どもたちが生まれた頃から現在までの写真のうち、母が写っている良さそうなものを選んだ。 夜遅くに長男・かずたかが帰宅。これで家族4人が揃うこととなった。少々疲れたので、この日は自宅で就寝。 【11月16日(土)】 10時半過ぎに東山愛昇殿へ。ポスターにしてもらう写真を持ち込む。祭壇が作られて来たことを確認してから一旦帰宅する。 午後2時、化粧直しをするということで、長女・ゆかこと一緒に再び東山愛昇殿へ向かう。母が亡くなってから対面するのはこの日が初めてとなる。長女・ゆかこは実習でエンゼルメイクをしているとかで、納棺師さんたちの化粧直しの様子をじっと見守っていた。ただし見た感じは、孫が祖母を見守るというよりか、看護師が患者さんを見守るという感じであったのは気のせいだろうか。 一旦帰宅し、夕方、家族全員で東山愛昇殿へ。祭壇もきれいに飾り付けがされていたほか、午前中預けた写真がポスターとなり、賑やかな感じとなった。生前、母が好きだった帽子、書道の書き物、ちぎり絵、塗り絵、筆などが飾られる。徐々に母親が亡くなってしまったという感じがするようになってきた。
午後6時から大心寺の住職によるお経で通夜が始まる。通夜は30分ほどで終了。 その後で家族で通夜食を摂る。今回の母の死去で、わが夫婦の父母の合計4人がいずれも亡くなったことになった。子どもたちも成人となりそういう時期になったのではあるのだが、何となくいつまでも生きていて欲しいと思ってしまう。東山愛昇殿を後にし、甘味処・おかげ庵に立ち寄ってからこの日は帰宅。 【11月17日(日)】 この日は葬儀当日。11時から出立料理(故人と一緒に摂る最後の食事)をいただく。朝はCOCO'Sでバイキングを食べてきたので、あまり腹も空いていなかったが、母親との最後の食事ということで、生前のことを想いながらいただく。 正午から告別式が始まる。お経は30分ほどで終了。棺おけの中に、生前母親の好きだったもの、好んできていた衣類を納める。祭壇にあるお花もたくさん納めることにした。母親は、薄紫の色が好きだったようで、薄紫の色の花を顔の近くに置いておいた。これが見納め。
13時に出棺し、昭和区にある八事斎場へ向かう。八事斎場は名古屋市内にある2つの斎場のうちの一つ。古くからある斎場だ。火葬するところも50近くある大型の斎場。名古屋市内はもちろん、名古屋市外からもここに亡骸が持ち込まれる。13時半前に到着。到着後ほどなく火葬が始まる。午後の時間ということもあるのであろうか、この日は比較的空いているような感じであった。 火葬中は、愛昇殿の待機場所で時間を過ごす。フリードリンクサービスのほか、きしめんのチケットを人数分いただいたのでこちらもせっかくなのでいただく。朝から食べてばかりのような気がする。私は、職場のメールの確認をしたりしていたが、3階に無料のマッサージ機があるとかで、他の3人はそちらの方に行ってしまった。 15時過ぎに火葬が終わったとの連絡が入り、再び火葬場へ向かう。 骨だけとなった火葬後の母親の遺骨が横たわっていた。頭蓋骨と背骨はしっかりわかる。ペースメーカーやがん治療などをしていないので、関連するものはなかったが、平成25年10月に自宅で転倒しそのときの手術で人工骨を入れたが、それだけは焼け残ってほぼ原型をとどめていた。 骨壺に遺骨を詰めるが、八事斎場では名古屋市の職員(?)がある程度拾って納め、家族は申し訳程度を納めるという形となっている。蒲郡市の斎場では、家族の気が済むまで骨壺に収めていたが、毎日たくさんの人が火葬に来るので、余り悠長に火葬場を使ってもらわないようにしているのであろう。
15時半過ぎに再び東山愛昇殿に戻る。これから初七日の法要を行う。 こちらも大心寺の住職のお経を20分ほどいただいた。今回の母親の法名の説明が始まる。母親の法名は「釋尼妙菫」。「釋」は[お釈迦様」のこと、「尼」は女性という意味。この後が法名の本番である。生前に使用していた名前の一文字と、生前のその人の人柄や好きなことに関する一文字を加えるのである。 生前の母親の名前は「きん」。ひらがなであるので、この文字をどうするのかと思っていたところ、ここについては「菫(音読みでキン、訓読みではすみれ)」を用いたという。花のスミレという漢字で、生前の母親が好きだった薄紫の花で母親にぴったりだ。「きん」という名前があまり好きでなかったようであるが、この文字ならさぞかし気に入ってくれるだろう。もう一文字は「妙」。こちらは非常にすぐれているという意味があるそうである。生前、あまり人から「すごいね、すごいね」なんて言われることを見たことのない母親ではあったが、地味ながらも一つずついろんなことを時間をかけて丁寧に進めることに対して評価してもらったのであろうか。思いもよらぬ「妙」という文字であったが、意味を聞いてさぞかし気に入ってもらえるだろうと感じた。本当に良い法名だと思う。 16時からは精進落とし。 再び、食事である。普段、あまりまともなものを食べていないせいか、長女・ゆかこは「出立料理」も「精進落とし」も「美味しい!美味しい!」を連発。孫の大きくなった姿を見て、さぞかし母親も喜んでいるかと思う。 17時にお開き。 長女・ゆかこは明日から再び京都の病院で実習のために京都に戻らなければならない。いつもは名古屋駅から高速バスで京都に向かうのであるが、今回は特別に新幹線での往復。名古屋から京都までのぞみで片道35分弱。名古屋から豊橋まで約50分なので、時間的には京都の方がずっと近い。20時前には下宿先に着いたと連絡が入る。長男・かずたかは、名古屋の友人との飲み会とかで出かける。
【11月18日(月)】 この日は、母親の入所していた施設から荷物の本格的な搬出。いつまでも荷物を置きっぱなしにしておくわけには行かない。午前中に一度、夕方に3往復して荷物の搬出は完了した。 午後からは、弔電をいただいた関係もあり、伏見の名古屋商工会議所ビルにある中部支部にお礼の挨拶に向かう。事務局長のSさんは4月からの着任であるが、先月の名古屋での水素関連のセミナーなどで何度か打ち合わせをしているので、そこそこ顔なじみになってきた。 夕方は、長男・かずたかの提案で、久し振りにスーパー銭湯で過ごす。慌ただしい数日であったが、また頑張ろうと思った次第。
【11月19日(火)】 特別休暇もこの日が最終日。最大で7日取れるものの、明日からは沖縄に出張なので、そうそういつまでも休んでいられない。特別休暇中といえども土曜日を除き、職場からのメールはチェックしている。一日で多いときは50~60件ほどメールが来ているので、放っておくと後が大変なので、なるべくこまめにチェックはするようにしている。 長男・かずたかは、午後から大学へ行くということで、名古屋駅を午前9時の高速バスで京都へ向かう。 施設にあった母親の車椅子、衣類、キャビネット、タンスなどをゴミとして処分しようと思っていたら、「カネを払って捨てるなら、俺が売って処分するよ」という。車椅子は、早速オークションにかけたようで、夕方には8,000円で売れていた。 また、母親の部屋にあったテレビは、京都の下宿先のテレビの画面に傷が入って見づらいので、不要なら京都へ持っていくという。スタンドを外し、梱包してそのまま京都に持って行ってしまった。私も捨てる手間が省けたので一石二鳥。衣類も売れるはずなので、そのまま捨てないで欲しいとのこと。年末に戻ってきたときに、長男・カズタカが手伝ってくれることになっている。 午後からは千種区役所に出かけ、医療証、敬老手帳の返納の手続きを行う。名古屋市の場合、埋葬した場合、喪主に5万円を支給するという制度があるようで、こちらも併せて手続きをした。その脚で、JR千種駅で来週の月曜日と火曜日の松山市への出張に行くための切符の購入をする。明日明後日は、沖縄へ出張。一旦東京に戻って金曜日に名古屋に戻ってくるので、新幹線の指定席など先に取っておかねばならない。 これで名古屋で行う一連の手続きなどは終了。土地の名義や銀行の解約などは追々やっていけば良いかと思う。明日からは通常の仕事に戻るが、やはりいろいろと慌ただしい6日間だった。
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令和元年11月17日(日) ~ No.1151 東京タワー ~ |
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下記の訃報の通り、母・加藤きんが数日前に他界しました。 母親は大正15年生まれ。その後、昭和、平成と生き続け、今年の5月からは時代も令和に変わり、4つの年号を跨いで生き続けたことになります。 ちょうど、私の娘の長女・ゆかこが5月で21歳になりましたが、私の母親・加藤きんが21歳の頃は昭和22年。戦後間もない日本が混乱していた時代です。当然のことながら、10代の頃は戦争のさなか。生まれも育ちも愛知県蒲郡市。ここは空襲の無かった田舎町ではありましたが、とはいえ多くの若者たちが戦争に借り出され、母親の実家の近くにある墓地には、戦争に出かけて二度と帰ってこなかった人たちのお墓もちらほら見かけます。青春時代を戦時中と戦後の混乱の時期で過ごしてきたことになるわけですが、これは運というか、そういう時代に生まれてしまった本人の意思とは全く反することだったのです。生前の母親から見た長女・ゆかこは、自分が謳歌できなかった二十歳前後をいきいきと生きていることをさぞかし応援していたんではないかと推測します。 さて、話を戻しますが戦後の日本は、復興に向けて日本中の人々が汗水流して働き続き、ご存じのように「高度成長時代」を迎えます。高度成長時代のシンボルである東京タワーも昭和33年12月に竣工。母親もこの頃に父・龍(平成5年没)と結婚。私が昭和37年に生まれ、昭和38年に日本初の高速道路・名神高速道路の一部が開通。東京オリンピックが私が生まれた2年後の昭和39年に行われました。新幹線もこのときに開業。昭和40年に名神高速道路が全通、昭和44年には東名高速道路が全通と作れや作れ!という時代であったことがよくわかります。
私の記憶にあるのは最後の印刷業です。自営でしたがなかなか大変な仕事でした。私を「大学に行かせるまでは金がかかるので、それまでは働かなければならない」と言っていたことを覚えています。私が高3(18歳)の頃ですが、当時の父親は64歳、母親は54歳。 一年の浪人生活の後、私は海上保安大学校に入学。父が私に対して学費がからないということがわかったせいか、最初に帰省したとき(昭和57年5月)には、父親は印刷の仕事を廃業していました。当時父親は66歳、母親は56歳。特に60代の後半になった父親にとって肉体労働はさすがにきつかったと思います。 戦争により青春時代を奪われ、高度成長時代に働き続けた両親が、ここでようやく一段落出来たわけです。 父親は10年後の平成5年1月に亡くなってしまいました(76歳)。 同じ年の5月に私が結婚し、名古屋に住むようになったこともあり、そのときから母親の一人暮らしが始まりました。 平成8年に長男・かずたかが、平成10年に長女・ゆかこが生まれてからは、なるべく子どもたちを連れて実家に遊びに行くようにしていました。娘のいなかった実母にとっては、、孫である長女・ゆかこは特に気に入っていたような気がします。 平成25年10月に自宅で転倒し、骨折をしたことで母親の一人暮らしは終止符を打ちます。 「蒲郡市民病院」⇒「厚生館病院」⇒「老人保健施設みらいあ」と短い時期にめまぐるしく移動がありましたが、平成27年4月から母が亡くなるまでの約4年半、名古屋市名東区の「グループホームいだか」さんでお世話になりました。私の自宅からは自動車で5分ほどのところにある施設です。ここは非常に面倒見のよい施設で、月々の費用も安く非常に良心的な経営で本当に助かりました。施設長さんをはじめ、いろんな方に大変お世話になりました。 自分も加齢が進むのですが、年老いた母親の姿を見るのはなかなか辛かったです。 特に施設に入ってからは更に認知症の症状が進み、人の名前をよく間違えるようになりました(なぜかカミさんの名前だけは間違えずに覚えていましたが・・・)。 今年の8月の少し前くらいから、急激に食欲が低下し出しました。市内の総合病院に連れて行きましたが、特に悪いところも見あたらず、診察の結果としては「認知症が進むと食欲が低下したり、飲み込む力が弱くなる」とのこと。「病院としての医療行為としては、特に出来ることはありません」という結果でした。自らの口から栄養が摂れなくなれば、生命維持は出来ません。このときに、初めて死期が近いことを私も悟りました。そして11月14日(木)の午前2時頃には、既に息を引き取っていたようです。 思い返せば、93年余りの母親の人生においては、息子から見ればお金の心配をさせることが多かったような気がします。私から見た母親の人生の中で、一番楽しそうな顔をしていたのが、孫たちと遊ぶ時だったような気がします。とくに、母の子どもは私だけだったので、娘がいなかった母親から見れば長女・ゆかこから「おばあちゃん、おばあちゃん」と呼ばれる時の顔はとても嬉しそうだったと思います。それだけに子どもたちを実家に連れていって、一緒に過ごしているときが至福の時だったかもしれません。 親孝行が十分に出来たかどうかは自信がありませんが、しばらくはゆっくりと休んで天国で新しい人生の出発の準備をして欲しいと思います。合掌。 |
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令和元年11月17日(日) ~ 訃報 ~ |
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施設に入所中の母「加藤きん儀(94)」が、11月14日(木)午前2時53分永眠いたしました。ここに生前のご厚情を深謝し謹んでご通知申し上げます。 通夜並びに告別式は下記のとおり家族葬で相営みました。たくさんの方々から弔電を頂戴しました。厚く御礼申し上げます。
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