第20回記念 つなぎブロンズマラソン大会 参戦記 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
車を置いて・・・ 熊本県には、4月の鹿児島遠征の際の経由地として訪れて以来7ヶ月ぶりにやってきた。 今回は九州遠征のためマイカーは自宅に置き、得意の夜行バスを利用した。今回の目的地は、熊本県でも鹿児島県境に近い葦北郡津奈木町というところ。津奈木町のすぐ南には公害で有名になった水俣市がある。熊本市から津奈木町へのアクセスは、熊本から八代まではJR鹿児島本線、八代から津奈木までは肥薩おれんじ鉄道と公共交通機関で行くことができる。 もともと自動車か公共交通機関で行くことができる大会を選んで出かけてるのではあるが、経営で苦戦している地方の公共交通機関が無くなるとこの国盗りも黄信号になるだけに、いつもながら公共交通機関の存在には感謝している。
九州新幹線。全通は平成23年3月12日 熊本駅構内には九州新幹線開業までのカウントダウンパネルが設置されている。 九州新幹線は、博多・鹿児島中央間256.8km。このうち、現在供用中なのが平成16年3月13日に先行開業した新八代・鹿児島中央間の126.8km。この区間については、平成17年8月の夏休み家族ツアーの行程の一部で鹿児島中央・新八代の全区間に乗車している。トンネルが多く、東海道新幹線のようには景色は見えなかった記憶がある。それよりも、この区間を走っている間に「昼食の駅弁を食べてくれ」とツアーガイドさんに言われ、かなり急いで食べた記憶がある。とにかく1時間も乗っていないのである。 現在も同じであろうが、新八代駅の新幹線ホームのすぐ向かいには、博多方面へ接続する「リレーつばめ号」が待機している。便宜を図ったものであろうが、やはり乗り換えは煩わしい。これも来年の3月11日で見納めとなるだろう。
またこの開業とともに、一部列車は新大阪から鹿児島まで直通で運転されるという。新大阪・鹿児島中央間は3時間45分、新大阪・熊本は2時間59分間の所要時間となるようだ。 鹿児島空港、熊本空港ともにそれぞれ市内の中心地から大きく離れたところにある。それぞれの区間で、新たに飛行機と新幹線の乗客の奪い合いが発生することが十分に予想される。どちらが便利か、開業したら一度試してみたいとも思う。 肥薩おれんじ鉄道 九州新幹線新八代・鹿児島中央間の開業に伴い、JR九州から経営移管された元の鹿児島本線八代 - 川内間の運営を行っているのが「肥薩おれんじ鉄道」だ。熊本県、鹿児島県、JR貨物のほか沿線の市町村も株主となって運営している典型的な第3セクター路線である。 はっきり言えば、JR九州に採算が合わないと見捨てられた路線(区間)を、学生、高齢者など自動車という足の使えない弱者のために自治体がシブシブ引き継いだような感じだ。 これまでにも肥薩おれんじ鉄道と同様、新幹線が開業したために、並行する在来線が第3セクターとなって引き継がれたというものが、青い森鉄道(東北新幹線八戸延伸部に並行する東北本線のうち青森県内の目時・八戸間25.9kmm を転換)、IGRいわて銀河鉄道(東北新幹線八戸延伸部に並行する東北本線のうち岩手県内の盛岡・目時 82.0km を転換)、しなの鉄道(長野新幹線に並行する信越本線の軽井沢 - 篠ノ井 65.1km を転換)である。いずれも経営状況は芳しくない。 今回の遠征で3度ほどこの”肥薩おれんじ鉄道”を利用したが、車両はすべて1両編成のディーゼルワンマンカー。大半の駅は無人駅で、その無人駅には自動券売機すら置いていない。路線バスを利用する場合、乗車時に整理券を取って下車時に精算するワンマンシステムが、この肥薩おれんじ鉄道でもとられている。合理化が徹底している。 今回、この肥薩おれんじ鉄道の八代・水俣間を利用したが、シーサイドを走るロケーションは素晴らしい。しかしながら得てしてロケーションのいいところを走る鉄道路線は、皮肉にも経営が苦しいところが多い。乗る側とすれば、素晴らしい景色を空いた車内から眺められるのはありがたいが、経営者側からは冷や汗ものだろう。 新幹線が開業し遠距離移動の利便性は高まる反面、地元の足としての機動力が低下することは地元住民にとっては死活問題。自動車などの運転が出来ない学生、高齢者に配慮した交通機関の整備はやはり必要ではないだろうかと考えさせられた。
水俣病 今回大会会場となる津奈木町のすぐ南に隣接するのが水俣市。今から50年ほど前に水俣病で大揺れになった街である。水俣市は、目立った観光地ではない。恐らくこれからわざわざ訪れることもないかもしれないので、コースの試走・下見の空いた時間を利用して水俣病資料館を訪れてみた。 まずは水俣病についておさらいしよう。 水俣病とは、新日本窒素肥料(現在のチッソ)水俣工場が、アセトアルデヒドの生産に触媒として使用した無機水銀(硫酸水銀)に由来するメチル水銀を排水とし、1950年代から60年代にかけて水俣湾(八代海)にほぼ未処理のまま多量に廃棄したことにより、魚にメチル水銀の生体濃縮が起こり、これを日常的に多量に摂取した沿岸部住民等への被害が発生したという有機水銀中毒のこと。 水俣病の主な症状としては、四肢末端優位の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、聴力障害、平衡機能障害、言語障害、手足の震え等がある。患者には重症例から軽症例まで多様な形態が見られ、症状が重いときは、狂騒状態から意識不明をきたしたり、さらには死亡したりする場合もある。比較的軽い場合には、頭痛、疲労感、味覚・嗅覚の異常、耳鳴りなどが起こるという。軽症者は、その症状が水俣病に起因するものかどうか判断が難しいため、水俣病の認定を受けにくいという問題点がある。 また昭和39年には新潟県阿賀野川流域でも同様の患者の発生が確認され、こちらは新潟水俣病と呼ばれる。こちらは、阿賀野川上流の昭和電工鹿瀬工場が廃棄した同じくメチル水銀によるものとされている。 そもそも何のためにアセトアルデヒドを生産していたのか? アセトアルデヒドは、酢酸や酢酸ビニルなどの中間製品として生産されていた。酢酸はアセテート繊維、酢酸ビニルはビニルと合成され、昭和20〜30年代は繊維原料として生産され、繊維工業の発展に寄与していたようだ。当時は、繊維産業は花形産業だったので、このアセトアルデヒドの生産は企業にも大きな利益をもたらしていたことは容易に推測できる。
今回訪れた水俣病資料館であるが、水俣駅から西へ2kmほど行ったところにある。バスなどもあるが本数が少ないので、ホテルに荷物をあずけ、ゆっくりジョギングして行くことにした。 水俣病資料館は、エコパーク水俣のほぼ一番西に位置する。エコパーク水俣とは、水俣湾に流れ込んだメチル水銀のヘドロを浚渫し、その場所を埋め立てた広大な公園のこと。58ヘクタールの広大な敷地を持つ。スポーツ施設の他に、バラ園や竹林園などがある。私が、訪れたのは土曜日の午前中であったが、野球やゲートボールをしている人がちらほらいたが、賑わっている感じはない。昨年4月に「道の駅 みなまた」がオープンしているが、こちらの方はそこそこの客で賑わっていた。 さて、話を戻そう。 私が水俣病資料館に到着したのは、午前11時頃。見学は無料であるが、ノートに記名をしてくれと頼まれた。驚くことに、今日この施設を訪れたのは私が一人目。いまだに訴訟は継続中であるものの、世の中の関心は薄くなってきているのであろうか。それとも、わざわざここに来てまで水俣病について勉強しようとする人がいなくなってきているのであろうか。 ノートに記名し、受付のすぐそばで15分ほどの短い映画を見るように促された。観客はもちろん私一人。しかしながらこの映画がよかった。 水俣病が発生するまでのことだけでなく、水俣がチッソと一緒に大きくなってきたことも一緒に描かれている。水俣はチッソによって育てられ、またチッソによって苦しめられてきたことが上手に描かれているのだ。ちなみに水俣の市制施行は昭和24年。昭和35年頃の最盛期には、人口が約48,000人いたものの水俣病が発覚したこの時期から人口が減り続け、現在は約27,000人にまで減っている。 水俣の人々の苦しみ。しかしながらいつまでも苦しんでいるだけでは仕方がない。「負(ふ)の遺産」を「冨(ふ)の遺産」に変えていこうという取り組みによって水俣を再生していこうという発想は素晴らしいと感じたものの、世間の評価はあまり芳しくないのが気になった。 しかしながら、この映画は一度くらいは見るべきだ。広島や長崎の人たちが原爆によって苦しめられたのと同じように、水俣の人たちは水俣病で苦しんできたのだ。二度とこのようなことが起きないようにあって欲しいと願うばかりだ。 津奈木町とは 今回、大会のネーミングの「つなぎ」と「ブロンズ」に惹かれて訪れた津奈木町。人口5,300人ほどの小さな町だ。 津奈木町のサイトで町の紹介を「熊本県南部に位置し、東南北の三方は山に囲まれ、海岸線近くまで迫る山々には、温暖な気候を利用して甘夏みかんやデコポンの果樹園が広がっています。西は不知火海に面しており、海岸線を利用してタイやフグ、ヒラメの養殖が盛んに行われています。」と表している。農業、漁業を産業の中心としたどこにでもありがちな町の感じがするが、実際に行ってみるとなかなかユニークだった。 水俣市の北側に隣接するこの津奈木町も、水俣市と同様、過去に水俣病患者を多く出している。町全体が暗く沈んでいたことは容易に想像できる。この街に彫刻が多いというのは、同じく町のサイトに次のように記されている。
私の個人的な印象であるが、水俣市は「エコ」を理念として市の再生を図ろうとしているが、街の中の雰囲気としてはやや沈滞している。反面、津奈木町はつなぎ温泉を中心に周辺から観光客を取り込んで街作りをしていこうという感じが見られた。今回、時間の関係もあって、この街の”ウリ”である彫刻については、全部を見ることが出来なかったが、なかなかユニークな温泉もありまた訪れてみたいと感じた街でもある。
コース紹介(コースガイド) → こちらを参照して下さい。 初の2本立て 今回の遠征では、3km(10時スタート)と10km(10時30分スタート)にエントリーした。 一大会で二種目のエントリーは、4月の「えびの京町温泉マラソン大会」以来2回目。ただし、えびの京町温泉マラソン大会は、例の口蹄疫の問題で開催直前になり開催が中止になってしまったので、実走は今回が初めてのこととなる。
まずは10時からの3km。 2種目めのことを考え、序盤はゆっくり必要最低限の走りをするつもりでいた。ところが、スタートするやいなや、同じ年代でポーンと走っていく人がいるではないか。「これはまずい!」と思い、その選手に慌てて付いていくことにする。その選手の頑張りも1kmくらいまで。追い付き、直ぐさま追い抜きました。その後は少しリードをしたまま余裕を持ってゴールへ。総合6位、40才以上男子では1位。まず1勝。 そして10時30分からは2種目めの10kmに出場。先ほどのゴールからわずか20分弱でのスタートとなる。これは見込み通り。 先ほどの3kmがウォーミングアップになったかと思いきや、むしろ先ほどのスタートダッシュが効いたみたいで走り出してみると足が思ったより重い。スタートしてから1kmくらいまでに、8人ほどの先頭集団が出来るものの、自分はこの中に入れきれず、この少し後方にいる。足が動かないので、徐々にこの集団から離されていく。しかしながら、1kmの通過ペース(私は3分20秒)からして、あの集団が最後まで続くとは思えない。スタート時に確認した同年代の選手も前にいる。
足どりは重いまま我慢して走っていると、こちらの期待通りに同年代の選手の背中がだんだん近づいてくる。そして4.8kmあたりの折り返し地点でとうとう追い付く。半分までに追いつくことが出来れば、後半は期待が出来る。「よし!いけるぞ!」 その選手はしばらくはついてきたものの、5km地点を越えてからは徐々に離れていったみたいだ。こちらはマイペースを貫く。若年層の選手に少し抜かれたものの、同年代の選手との位置関係は変わらずそのままゴール。総合10位、40才代男子では1位。2種目の優勝で熊本県の国盗りを飾ることができた。 また表彰式では、西川・津奈木町長さんから「2種目の優勝者」と紹介された。3kmは10分20秒、10kmは36分53秒とタイム的にはたいしたことはないが、ちょっと照れ臭いような鼻が高いような複雑な気持ちだった。
本日の戦利品
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