第62回公認祐徳鹿島ロードレース大会 参戦記 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
往復夜行バス
昨年は大阪から佐世保行きの夜行バスに乗り、途中の武雄温泉で下車。さらにバスを乗り継ぎ嬉野市まで行った。名古屋から佐世保行きの夜行バスが平成23年10月末日に廃止となり、佐世保方面への夜行バスの移動は大阪からのみとなり、少々不便となった。 今回の会場の佐賀県鹿島市は、嬉野市よりもさらに南方に位置する。行き方をいろいろと考えたもののなかなか妙案が浮かばず、最終的に名古屋から出ている長崎行きの夜行バスでいくことに決めた。これも土曜日出発となると強行軍であるが、金曜日出発で前泊するとなると時間に余裕が出来る。 今回、佐賀県の国盗りが達成できれば、九州島内の7県の国盗りが完了。別大マラソンを除けば、九州にそうそうやってくることもなくなるかもしれないので、それならば長崎市内の観光もしておこうかということで長崎行きの夜行バスを利用することにした。 行きは長崎自動車の運行で座席数27名に対して18名の乗車、帰りは共同運行の名鉄バスでこちらは27名の座席数に対して15名の乗車と満席にはほど遠い状況。あまり乗車率が芳しくないと、名古屋-長崎の夜行バスも廃止になるかもしれない。夜行バスユーザーの私としては、ちょっぴり気がかりだ。 長崎市内散策 今回長崎経由で佐賀入りをしたのであるが、コースの下見等の時間を大会前日の午後としたこともあり、夜行バスが長崎に到着する午前7時過ぎから、JR長崎駅を列車が出発する12時30分過ぎまでの5時間ほど長崎に滞在する時間が出来たので、この時間を利用して駆け足で長崎市内の観光をすることにした。出かける前にあまり長崎市内の観光について調べたり検討する余裕が無かったので、今回は金曜日に本屋で「るるぶ」を購入し、バスの中で読みながら観光の目的地を決めることにした。 長崎市内にやってくるのは、高校生の時に一人旅でやってきて以来33年(もしかしたら34年?)ぶりだった。当時のことはあまり記憶は無いが、JR長崎駅はとてもきれいになっていたというのが今回の第一印象だ。 長崎は鎖国時代に外国から文化が多く入ってきたこともあり、当時の歴史的価値のある建築物が多い。また、同様に西洋伝来の食べ物も多く、観光するには一日では全く時間が足りない。 また、広島市と並んで原爆投下を受けた都市でもあり、その関係の施設もいくつかある。 このあまりにもたくさんある観光施設から、4時間程度の時間を使って観光をするというのは苦渋の選択だった。せっかく市内に市電が走っていることもあるので、市電を使って楽しめるところにしようと考え、大浦天主堂、グラバー園を観光することに決めた。いわゆる「南山手付近」だ。 また時間があれば、その隣の「東山手」のオランダ坂などをプラプラ散策しようとも考えたが、結局時間が無く、大浦天主堂と、グラバー園のみの観光となった。
大浦天主堂 パリ外国宣教会フューレ神父は、1863年1月に来日。南山手の外国人居留地に隣接した現在地を入手。 次いで8月初旬に来日した同宣教会プチジャン神父の協力を得て、天主堂建立に着手。翌年12月に竣工し、1865年2月に祝別式を挙行。『日本二十六聖殉教者天主堂』と命名。 日本では地名をつけて呼ぶ習慣があり、ここを通称『大浦天主堂』と呼んでいる。 祝別式から一ヶ月後の3月17日、当時「フランス寺」と呼ばれていた天主堂に珍しい西洋風の建物を一目見ようと、見物人が大勢来ていたが、その客にまぎれて、浦上の隠れキリシタンたちがやって来た。聖堂内で祈るプチジャン神父に近づき、「ワタシノムネ、アナタトオナジ」、つまり、私たちもあなたと同じ信仰をもっています、とささやいて信仰告白した後、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねた。プチジャン神父は大喜びで彼らをマリア像の前に導いた。 こうして、プチジャン神父によってキリスト信者が発見され、その後、五島、外海、神の島など長崎県の各地からうわさを聞きつけたキリシタンたちが名乗りをあげにやってきたと言われて。 なお、名称の由来となった日本26聖人とは、豊臣秀吉のキリシタン禁教令によって捕縛され1597年2月に長崎西坂の丘で処刑された26人が、1862年6月、ピオ9世教皇により聖人の尊称を献上されて、全世界でカトリック全教会信徒の尊崇を受けることになった日本人20名、外国人6名の聖殉教者達のこと。 キリシタン禁教令にもかかわらず、長崎はキリシタンの街として栄えてた。ポルトガル貿易の為、秀吉は長崎に宣教師の居住を認め、住民の信仰の自由を黙認していた。だから、その場所をこの26人の処刑地に決めたのは、長崎に住む人々への警告のためであったといわれている。
グラバー園 大浦天主堂のすぐそばにグラバー園がある。こちらの歴史についても触れてみよう。 ペリーが浦賀にやってきたのは1853年。諸外国は通商貿易を求めて相次いで来航し、幕府に開国を迫り幕府はついに開国へと踏み切ることになる。英国・アメリカをはじめとした5か国と修好通商条約を締結。これに1859年に長崎は横浜・函館ともに開港され、外国との自由貿易時代に入った。
山手のなかでも、南山手が住宅地として利用されたのに対して、東山手は当初「領事館の丘」と呼ばれ、ポルトガルやプロシアなど、各国の領事館が建ち並んでいた。こうしたことからこの地には様々な種類の洋館が建てられ、大浦バンドと呼ばれる海岸通りを中心とした居留地独特の街並みが形成されていった。 1899年に外国人居留地は廃止されたが、その後も洋館は残り、長崎の街に異国情緒を醸し出していた。1970年に、次第に少なくなってきた洋館を保存しようと、旧グラバー住宅などがあった南山手の丘を整備。市内に現存していたさまざまな洋館を移築して、グラバー園が誕生ている。それ以来、グラバー園は長崎を代表する観光地となった。 「グラバー園」の名の”グラバー”とは、トーマス・ブレーク・グラバー(1838年~1911年)のこと。スコットランド出身のグラバーは、21歳の時に開港と同時に長崎に来日し、グラバー商会を設立している。 幕末の激動の時代の中、伊藤博文らの英国留学を手伝うなど、若い人々への多大な援助を惜しまなかった。また明治以降は純経済人として、日本の近代科学技術の導入に貢献している。とび色の瞳と赤い顔のため、彼が経営した炭坑の坑夫からは「赤鬼」とあだ名されていたが、性格は豪胆で情に厚く、使用人の子供にさえお土産を忘れないきめ細やかな愛情の持ち主だった。 日本で終生を過ごし73歳の生涯を閉じたグラバーは、現在でも長崎市の坂本国際墓地で妻ツルと、息子の倉場富三郎夫婦とならび眠っている。
また、別の機会に長崎市内をさらに散策したいと思います。 祐徳稲荷でお参り この日の午後に長崎から佐賀県鹿島市へ移動する。 コースの下見と試走をすることにするが、今大会のスタート地点の後方には、祐徳稲荷の大きな鳥居がそびえている。この祐徳稲荷は日本三大稲荷の一つといわれている。 調べたところ、日本三大稲荷については、 ①伏見稲荷(京都府)、笠間稲荷(茨城県)、祐徳稲荷(佐賀県)という説 ②伏見稲荷(京都府)、豊川稲荷(愛知県)、祐徳稲荷(佐賀県)という説 ③伏見稲荷(京都府)、豊川稲荷(愛知県)、最上稲荷(岡山県)という説 などの諸説があり、総本山の伏見稲荷は別格として、残りの2つはわが愛知県の豊川稲荷、笠間稲荷、最上稲荷と今回訪れた祐徳稲荷の中から2つが選ばれるような感じだ。 祐徳稲荷が日本三大稲荷に入るかどうかは別として、佐賀県鹿島市のこの奥まったところにこのような荘厳な神社があるのは驚きだった。年間300万人が参拝に訪れる。九州では太宰府天満宮に次ぐ参拝客数ということのようだ。 祐徳稲荷の由緒としてはウイキペディアには以下のように書かれている。
建立されたのが1687年と今から326年前。奈良、京都の仏閣と比べるとその歴史は浅くは感じるが、昭和32年に再建された本殿は今から50年以上前のものとは思えないほど艶やかであった。 私はコースの下見にのついでに立ち寄ったのであるが、冬の寒い時期の午後にもかかわらず、祐徳稲荷には多くの参拝者が訪れていることから、この神社の参拝者が多いことが十分にうかがえた。
コース紹介(コースガイド) → こちらを参照して下さい。 公認鹿島祐徳ロードレースとは 今回で第62回を数える”公認鹿島祐徳ロードレース大会”。始まったのは昭和27年(1952年)であるが、一般の部としては第1回~第37回が20km、第38回~第49回が30km、第50回の記念大会以降はハーフマラソンが実施されている。なお、一般女子は第45回大会から部門が設けられ、今に至っている。 また10kmは第11回大会から高校の部として始まっているが、第39回大会から女子が「高校・一般女子」として始まっている。一般男子がいつから10kmに出場できるようになったかは不明であるが、昨年の第61回大会(2012年)からは、ハーフマラソン、10kmともに男子のみ年代別の区分が「①18~39歳」と「②40歳以上」から「(1)18~39歳」、「(2)40~49歳」、「(3)50~59歳」と「(4)60歳以上」に分かれ、そのおかげで今回国盗りが出来たのである。 幾多の変遷を重ねて第62回を迎えた歴史ある大会。過去には著名な選手が優勝している。 第16回~第18回では佐々木精一郎(メキシコ五輪マラソン代表:鳥栖工高-九州電工)が3連覇、喜多秀喜(モスクワ五輪5000m、10,000m代表:鹿島実高-福岡大学-神戸製鋼-帝京大学監督-流通経済大学監督)が第23回、第30回、第39回大会で優勝、30kmロードの元日本記録保持者の西本一也(九州産交)は第32回大会、早田俊幸(1995年世界陸上代表:県岐阜商-カネボウ-アラコ-ユニクロ-本田技研)は第42回、第44回大会で優勝している。 また第60回大会(2011年)から箱根駅伝出場校を中心に学生ランナーを多数参加してもらっている。さらに昨年からは鹿島市がスポーツ合宿の誘致を行い、補助金を出して関東の大学を中心にこの地に呼び寄せている。日頃は静かであろうこの鹿島の街中には、あちこちに「歓迎」の幟が立ち並び、遠来客の歓迎ぶりを際立たせている。 60回を超える大会は、現在も九州の主要レースであることには間違いないだろうが、昨今のマラソンブームの中で競技志向の高いこの大会は、参加者が伸び悩んでいるのであの手この手で参加者を増やしつつも高い競技性を維持していこうという意図がよく現れている。
冷や汗かきながら、佐賀県の国盗り達成! 九州で最後に残った佐賀県の国盗り。佐賀県は大会数が少なく、またハイレベルな選手が多いので、今日を外すと国盗りの全国制覇が非常に厳しい状況になるので、今日は何が何でも勝ちに行くことで気合いを入れていた。 今日のスタート時間は午前11時。いわゆるマラソン大会としては遅いスタート時間になると思うが、この大会のメインのハーフマラソンのスタート時間は12時15分。どうもテレビ中継の都合でこのような遅いスタート時間のようだ。 この大会は九州内でも由緒ある公認大会。今回も関東学連から男子8名、女子2名、また佐賀県内からも5名の招待選手を呼んで大会に花を添えている。 鹿島市内にはあちこちにこのロードレース大会の幟のほかに、今回出場する大学の幟が多く立っているのが目につく。それもそのはず、鹿島市内で関東学連に所属する大学がこの時期に合宿にやって来ているのである。合宿ついでにこの大会に参加ということなのであろうか。 若い選手が多いので早めに招集場所へ行って、スタート場所を確保しようとする。招集地点はスタート場所の道路から左手に入った駐車場だ。一般ランナーには「ここより前に行かないでね」と注文を付ける係員。せっかく早く来たにもかかわらず、大学生や高校生がどんどん後から来て前に来る。一般ランナーには厳しくモノをいう係員も後からやってきた彼らには何も言わない。彼らもタイムを狙っているかもしれないがこちらも同じ。場所取りをしたいのならもう少し早く来いと言いたい。 最前列は大東文化大学勢がほぼ陣取るような形となった。女子2名の招待選手がいるのでやむなし。何とかそれでも2列目を確保した。
11時ちょうどに号砲。男女合わせて実業団、大学生、高校生がざっと140人もいる。スタートするやいなやあっという間に先頭等の差はみるみる開いていく。 スタートしてから約400mで信号の無い交差点を斜め左へ曲がっていく。この辺りでは正面から強く向かい風が吹く。辺りには遮る建物もないので高校生を風よけに使いながらここを凌いでいく。 久保山北交差点が見えてくる。この交差点の前が1km地点だ。列は既に相当長く伸びている。私と先頭の差もざっと見た感じで100m強はありそうだ。 1kmの通過が3分11秒。スタートから最初の1kmくらいまではやや下り気味とあって、スピードがいつも以上に出ている感じはしていたが、少々オーバーペースと感じここからペースを少し落としていく。先頭を走っている大学生はおそらく2分50秒を切っているだろう。 2km地点付近からコースはほぼ平坦となる。この辺りから見物をしている人が増え声援が多くなる。しかしながらペースを落としたこともあって、ゆっくりであるが少しずつ後方から抜いていく選手が増える。 4kmくらいから後ろについて走る選手がいた。沿道の人が「大東頑張れ!」というので、よく見ると大東文化大学の女子選手だった。今や私も35分ランナー。大学生の女子選手と勝負するレベルになってしまった。 とはいえ、この選手とは4~6kmくらいまでは併走、その後徐々に離されたものの、今日のレースペースを作っていくのにはありがたい存在だった。 4kmを過ぎて徐々に観客が少なくなり、5kmの折り返し地点の赤いコーンが見えてくる。17分32秒で折り返す。入りの1kmは少々早かったものの、5kmの通過はほぼ目標タイムになっていた。折り返してくる選手が何人いるだろうと数えながら走っていたが、難と自分はちょうど100番で折り返していったのだった。さすがに高校生、大学生らが大挙して参加してくるような大会だけあって、50歳代では上位に入ってくる私でさえこの順位だ。 話を戻す。 折り返して約10秒ほどで、私と同じ1300番台のランナーとすれ違う。私はアウェーの参戦なので、もちろん後続のランナーのことは全く知らない。折り返し後で約10秒ですれ違ったので、距離としては20秒分約100mほどの開き。ポジティブ・スプリット的な走りの私としては、後半粘って何とか逃げ切りたいと考えていた。
残り1kmの久保山北交差点からゴールまでは1%ほどの登り坂となり、気を緩めるとペースが落ちてしまうところであったが、ここまで来たら逃げ切るしか無いと思いペースアップをはかる。 残り400mほどで右に曲がり、祐徳稲荷前の参道の直線道路に出た。徐々に沿道の人が増え気合いが入る。緩い登り坂ということもあって、なかなかペースが上がらなかったものの、スタートしてから36分に近づいてきた頃、ようやくゴールを越えることが出来た。 しばらくすると後続の同年代の選手がフィニッシュ。5kmの折り返しですれ違うランナーを確認したが、同年代で私よりも前を走っているランナーはいなかったはずであるが、もしかしたら見落としをしているかもしれない。 ゴールの左手には記録証発行所がある。おそるおそるここで記録証を発行してもらう。順位のところには「1位」と書かれていた。この瞬間、佐賀県の国盗りを達成したことが正式に決まったのであった。嬉しいこともさることながら、難攻不落と覚悟した佐賀県の国盗りを達成できて安堵感の方が強かったことは言うまでもない。 なお、表彰式の際に2位の江口さん、3位の坂井さんと少し雑談をさせていただいたが、お二人とも穏やかな感じの方で気持ちのいい表彰式だった。 後日発表された大会ホームページを見ると、昨年から新設された10km男子50~59歳部門の大会記録を更新していることがわかり、記録の横に「大会新」のマークが表示されている。
本日の戦利品
|