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令和2年8月22日(土)
~ No.1225 古渡城、末盛城、沓掛城、大高城、桶狭間古戦場 ~
 8月30日(日)から「麒麟がくる」の放送が再開されるようです。前半もなかなかよく、後半もきっと期待できるものになろうかと思います。とりあえず、放送が再開される前に前半の復習を兼ねて、桶狭間の戦いの舞台となった桶狭間の合戦場(跡)、今川義元がその直前に宿泊していた沓掛城(跡)、徳川家康が戦いに加わらず居残った大高城(跡)などを帰省期間中にカミさんと一緒に回ってきました。

 沓掛城や大高城は、「麒麟がくる」でも登場してきますが、大きなポイントではありません。やはり一番メジャーなのは「桶狭間の戦い」の合戦場でしょう。合戦は広範囲で行われていたようですが、史跡として残っているのはその一部で今川義元が戦死したと伝えられる場所です。
 織田信長と今川義元の像が建てられているものもありますが、こちらは「桶狭間古戦場公園」という別のところです。こちらについては今回は訪れていませんが、機会があれば訪れて紹介したいと思います。

 以下は、今回訪れたところに加え、別日に訪れた末盛城も加えて説明をします。

【古渡城/名古屋市中区】

こちらは浄土真宗・大谷派の寺院で「名古屋別院」。浄土真宗・大谷派の本山が東本願寺(いわゆる「お東さん」)なので、名古屋ではここを東別院というように呼んでいます。近くに地下鉄の東別院駅もあります。名古屋では有名なお寺の一つですね。
 
1690年(元禄3年)、尾張藩第2代藩主・徳川光友より織田信秀の居城・古渡城の跡地約1万坪の寄進を受けて建立された旨のことが書かれています。

上の写真の「山門」をくぐりすぐ左側を見ると、「古渡城趾」という碑が見つかります。
 
こちらは拡大したもの。

1534年、織田信秀(織田信長の父)が東南方に備えるために築城した城。信秀は今川氏豊から奪った那古野城を織田信長に譲り、この城を拠点とした。1546年、信長は古渡城にて13歳で元服。
1548年、信秀は末盛城を築いて移ったため、古渡城はわずか14年で廃城となる。
 
こちらは東別院の本堂。なかなか大きく立派な構えです。中にも入ってお参りしてきましたが、広いですねぇ。ちなみにカミさんの両親の骨は、東別院に納骨されています。

【末盛城/名古屋市千種区】

こちらは城山八幡宮(名古屋市千種区城山町)。わが自宅のある名古屋市千種区の氏神様。毎年、初詣には必ず出かけています。そのほか、厄払いもここで行いました。
 
こちらは本殿です。正月の初詣は、結構な人が訪れます。もともとは、この場所ではなくここから北東300mのところに鎮座していたが、昭和11年に氏子崇拝者による浄財寄進により、飛び地であった現在の地に移転している。

この城山八幡宮のある場所は、かつて末盛城(末森城)のあったところ。1548年に織田信秀(信長の父)が築城。1552年に信秀が亡くなり、この城は弟の信勝が引き継ぐ。廃城になった時期は不明。
 
こちらは末盛城があったことを示す碑。当時は「末森城」と呼んでいたので、碑も「末森城址」と書かれている。

城山八幡宮の境内には、「末森城本丸跡」と書かれたものも立てられている。
 
城山八幡宮の略記があります。沿革には以下のように書かれています(●は、よく読めなかった箇所)
「当宮は往古、末森城の麓に鎮座し300年以上前から産土神、勝運守護の神として●敬を集めてきたといわれており、昭和11年に境内地であった現末森城址に鎮座した。末森城を築いた織田信秀(信長の父)、信行(信長の弟)を始め尾張藩主等、戦国 江戸時代を通じ、武将の篤い崇拝を集め、現在も名古屋の東の守り神として「厄除開運・交通安全・勝運守護」の御神●が信仰されている社である。(後略)」

【沓掛城/愛知県豊明市

調べた住所をナビに入れて自動車を走らせると「沓掛城址」という標識が現れます。助かります。
 
豊明市が作ったのでしょうか、城址公園となっていました。

自動車が10台程度止められる駐車場も整備されています。
 
豊明市の史跡としたのが最近なのか、沓掛城址の説明書きの案内が新しいものでした。平成29年4月に豊明市の史跡に指定されたようです。

やはり1560年の桶狭間の戦いの前日に、今川義元が入城したことがここに記されています。1560年当時の城主は、9代目近藤景春で、織田信秀の死後、信長から離反して今川方に属してていました。
 
城址に近づくと、また別に説明書きがありました。

当時の城主、近藤景春は桶狭間の戦いで敗れ戦死したとあります。
 
こちらが城址公園。写真の真ん中にあるのは、井戸。廃城になったのでめぼしいものはなく、公園と言っても草は伸び放題で手入れがなされている感じはしません。

公園の端の方に「沓掛城址」の碑がありました。こちらは時間が経過し、少し痛んだ感じがします。
 
正面から撮ったところ。

【大高城/名古屋市緑区】

大高城跡も、ナビに住所を入れていくと標識が現れました。民家の中のあまり広くない道路にあるので、ゆっくり走らないと見落としそうです。
 
確かに少し歩いたところに説明書きと碑がありました。

やや茂みに隠れるようになっている「大高城跡」の碑。
 
こちらはその近くにある説明書きです。やはり1560年の桶狭間の戦いの時に松平元康(後の徳川家康)が守っていたが、今川義元が戦死し、地元の三河に帰ったと記載があります。

こちらは比較的新しく立てられた説明書きのようです。大高城も、沓掛城と同じく、今川方の城となっていた。1560年の戦いの前には、松平元康(後の徳川家康)が兵糧を運び入れ、その後丸根砦を落とし、戻った後はここで休息をとっていたとのこと。明治3年に廃城。
 
左の説明書きの下に、こういうものがありました。「信長攻略 桶狭間の戦い 人生大逆転街道先ほど紹介した古渡城にもこのマークのものがありました。ホームページもあるので、ルートをたどるのも面白いですね。

【桶狭間古戦場/名古屋市緑区~豊明市】

さて、最後は桶狭間古戦場です。国道1号線にも「桶狭間古戦場」の案内看板が出ています。この交差点の右手の方ですね。
 
庭園のような公園が、「史跡 桶狭間古戦場」です。桶狭間古戦場公園というのもありますが、ここから南西に1kmほど行ったところにあります。

国道1号線に近い方角に、碑が立っていました。昭和16年10月建設とありますので、相当昔から整備されたところということになります。
 
桶狭間の戦いは、今川方25,000人、織田側3,000人が戦ったというので、相当広範囲における戦であったようです。この地は、今川義元が戦死した場所ということで、桶狭間の戦いの中心場所という位置づけのようです。

公園内は庭園のように整備されていますね。歴史に残る大きな出来事が起きた場所なので、豊明市教育委員会の力の入れようがわかります。
 
これは今川義元がここで戦死をした場所(一号碑)を示すもの。この古戦場には、全部で7つの碑があります。1771年に立てられたとかで、かなり風化が進んで文字が読みにくくなっています。

先の一号碑の説明文です。
 
こちらは今川義元の墓とか。

この説明によると、元々は塚であったものを有松(名古屋市緑区内の地名)の住人明治9年5月に建てたとか。
 
ここでは桶狭間の戦いについてまとめてあります。

今川方25,000人、織田側3,000人でどう見ても劣勢な織田側が、一瞬の隙を突いて攻め勝ったことが書かれています。
 
お互いにどういうルートで攻め入ったかが書かれています。沓掛城址にもほb同じように書かれていました。

こちらはこの古戦場の周囲の石碑についての説明です。歴史的な事件の場だけあって、石碑の数が異常に多いです。
 
こちらも古戦場址を示す石碑ですが、建てたのは愛知県(愛知県庁)のようです。以下の4つの碑は、今川方の家臣の戦死者の碑のようです。全部で7つのうち今川義元、松井宗信以外は氏名が不詳です。
 
 

道路を渡ったところにもいくつか関係するものがあります。
 
こちらは「お化け地蔵」。1853年尾張藩士が建てたとか。地元には亡霊が出るといわれていたが、このお地蔵を建ててからは出なくなったという。

カミさんが、また何かを見つけました。

こちらも今川義元の墓。仏式だそうです。

今川義元の300回忌にあたり建てられたものだそうです

再び道路を渡って古戦場の公園に戻ります。

道路脇に古びて枯れた木があります。

「駒つなぎのねず」というそうです。今川義元がこのねずの木に駒をつないだというもの。ここに酒宴を張っていたところ、天候が急に変わり信長に襲われたというもの。
令和2年8月17日(月)
~ No.1224 スマホ買い換え ~

左側が旧スマホ。右側が新しいスマホ(アンドロイド)。まだ表面にはフィルムが貼ったままです。少しサイズが大きくなった感じです。
 ノートパソコン、冷蔵庫、キャリーケースにデジカメとここ最近いろいろと壊れて買い換えが続いています。

 先週、スマホの音が鳴らなくなり、「おや?設定のミス」と思っていましたが、念のため自宅から電話をかけてみたところ、話し声も聞こえてきません。「う~ん、壊れた?」と思いドコモショップへ出かけます。店員さんもテストしますが「どうもスピーカーが壊れているようですね」という診断。修理に出しても、時間と費用からすれば買い換えした方がよいと判断(店員さんも同じことを言ってました)。今回、買い換えることにしました。

 3年ほどしか使用していなかったので、少々もったいないような気はしましたが、この手のものは最新のものにしておかないといろいろと不都合が出てきます。結局、アンドロイドの一番廉価版で、税込23,760円のものに買い換えしました。こちらの手続きをしたのが8月15日(土)の夕方。

 ところでスマホを買い換えして面倒なのが、電子マネーの入れ替えとアプリのダウンロードですね(カミさんは、非常に嫌がって5年も使い続けている)。私が使っている電子マネーは、Edy、Waon、nanacoの3種類ですが、一旦、センターというところに預け、スマホを変えたらそこからまた戻すというやり方。各社によって若干手続きの差はありますが、概ねそういうやり方です。
 あとはLINEの設定、セブンイレブンのアプリ、ヤマダ電機のアプリ、スポーツナビのアプリ、スマートニュースのアプリなどいくつかダウンロードしてセットアップが完了。夕方から始めて日付が変わりそうな時間までセットアップに時間がかかりました。
 今回スピーカーが壊れたのは謎ですが、新しいスマホこれからも大切に使いたいと思います。
令和2年8月17日(月)
~ No.1223 夏期休暇終了。帰りは青春18きっぷ ~
8月17日(月)の移動スケジュール

自由ヶ丘 9:07 金山 9:37
【以下JR】
金山 9:50 豊橋 10:39
豊橋 10:43 浜松 11:17
浜松 11:27 島田 12:14
島田 12:24 熱海 14:21
【熱海で昼食・休憩】
熱海 14:50 戸塚 16:01
戸塚 16:10 市川 17:13
市川 17:16 本八幡 17:18
 
 8月7日(金)の午後から始まった夏期休暇も本日で終了。長かったようで、終わってみるとあっという間でした。今年はコロナの関係で自粛ムード満点。帰省している間の遠出といえば、蒲郡に2回ほど行ったのと、茶臼山練習に一度出かけた程度。珍しくじっとしていた今回のお盆休み。

 8月7日(金)は、東京駅から星ヶ丘までJRハイウエイバスで帰省。こちらは早割で2,350円。本日の名古屋からの戻りは、青春18きっぷを利用し、東海道本線の乗り継ぎ乗り継ぎで東へ向かった。こちらは、金券ショップで5回分を11,700円で購入したので、1回分が2,340円。バスの早割とほぼ同額であるが、乗り換えの多いこと多いこと・・・。計画的に行動しないと、トイレも食事もできなくなるので、あまりギリギリの計画をしないのがコツ。あとは、乗り換え後に席に座れないことがないように、通勤時間帯を外すなどの工夫も必要。列車が遅延して、接続する列車に乗れなくなることもあるので、終電で到着するような予定は組まない方が賢明。
 乗り換えは多いけど、名古屋~東京の東海道の景色は素晴らしいので、その気のある方は一度お試しを。ただし、移動時間が長いので、退屈をしのぐ準備は必要かと

地下鉄でまずは「金山」へ移動。ここからJRの利用が開始になります。
 
自動改札を通れないので、今日の日付のスタンプを押してもらいます。

JR東海は駅名標にこのオレンジのラインが入っているのが特徴。
 
まずは新快速で豊橋へ。特急並みにすっ飛ばして走ります。

蒲郡の手前の「三河塩津」駅。独身時代、この駅から県庁へ数年通っていました。
 
わが実家のある「蒲郡」。今日は車内から駅名標を撮影しただけ。下車はしません。

ラグーナ蒲郡
のシンボルの観覧車が見えます。また機会があれば行きたいですね。
 
最初の乗り換え駅「豊橋」には10時39分の到着。ここまで定時運行。

ホームの左側の列車から右側の列車(浜松行)に乗り換えるだけ。いつもこんな感じだと楽ですね。右は10時43分の浜松行。乗り換え時間はわずかに4分。
 
浜松に行く途中、浜名湖を通過。弁天島付近ですね。このあたりは、海水と淡水の混じる汽水域です。

浜松には11時17分の定時到着。地下道をくぐって乗り換えします。
 
浜松からは、興津行の普通列車に乗り換え。わずかに3両編成。11時27分なので乗り換え時間は10分。

興津に行く途中の島田で乗り換え。島田が始発の12時24分発熱海行に乗り換え。
 
熱海には14時21分到着なので、島田から約2時間乗りました。ここで昼ご飯休憩。確か4番5番線に「熱海そば」という立ち食いそば屋があったはずだが・・・。

調べたところ、平成31年1月10日をもって閉店したとか・・・。ホームには、建屋も撤去され跡形もなくなっていました。仕方なく一旦改札から外へ出ました。

さすがに温泉の街だけあって、駅前には無料の足湯があります。結構利用者は多い感じ。

このあたりも熱海らしい風景ですね。

結局、NewDaysというコンビニでパンと飲み物を買って再びホームへ。ホームにもNewDaysがあり、改札の外へ出る必要もなかった感じ熱海からは14時50分発高崎行普通に乗り換え。

戸塚には16時01分の到着。トイレに急いで行ってきました。

16時10分発上総一ノ宮行。ようやく、横須賀線・総武線の快速にたどり着きました。一気に市川へ。

市川には定刻の17時13分に到着。自由ヶ丘を出てから8時間が経過しました。総武線普通に乗り換えです。

本八幡に戻ってきました。17時18分。さすがに少々グロッキー。

8月7日(金)に単身赴任先をあとにしてから10日ぶりに戻ってきました。

最後も自動改札ではなく、一番右の有人改札から出ます。ホントに一日がかりになってしまいました。
令和2年8月11日(火)
~ No.1222 キャリーケースにデジカメも買い換え ~
 先週は、冷蔵庫の買い換えのご報告をしましたが、6月にはデジカメが、そしてつい最近、キャリーケースも壊れてしまいました。どちらも私にとっては大切なアイテム。今思えば、私の使い方に問題があるような・・・。

 また、どちらも修理に出しても時間も費用もかかりそうなので・・・。ということで、いずれも新たに買い換えしました。今後は大切に使いたいですね。(※ 実はまだ買い換えしなければならない大切なものが残っています。後日レポートします。)

アピタ千代田橋店で購入してきました。20%引きで8,360円。これまで使用していたものよりも一回り大きなサイズにしました。
 
こちらはデジカメ。防水タイプで20,700円ですが、ヤマダ電機のポイントやJCBのギフトカードなどを使って7,000円ほどで購入できました。スマホとは違った性能がいいですね。
令和2年8月8日(土)
~ No.1221 14年ぶりに冷蔵庫買い換え ~
 昨晩、単身赴任先から名古屋へ帰ってきました。しばらくはお盆休みで名古屋にいる予定です。

 さて、話は変わりますが、一ヶ月前ほどから冷凍庫のアイスクリームが軟らかくなることが発覚。以前もそうでしたが、こういう現象が起きてくると冷凍庫を修理しようとしても保証期間は切れているので有償になるし、同じようなことが繰り返し起きる可能性が高いです。ということで、修理は諦め、さっさと買い換えをすることにしました。

 カミさんはK'sデンキが好きなようなので、先日の4連休の7月23日(木)に恵那市に行った帰りにK’sデンキ一社店に立ち寄ってその場ですぐに冷蔵庫の機種決めをしました。4連休中に配送してもらえるかと思いきや、以外にも時間がかかるとのこと。結局8月8日(土)の本日配送していただきました。

 今日まで使ってきた冷凍庫は、平成18年4月7日(金)から使用してきたもの。14年と4ヶ月の冷蔵庫人生でした。14年前は前倒しの搬入で、スイミングスクールから帰ってきた子供たちが大はしゃぎ。今はその子供たちも、社会人と大学生。時間が過ぎるのは早いですね。
 今回の冷蔵庫を前と同じペースで使えば私も70歳を超えることに。一緒に長生きしましょう!

古い冷蔵庫をとりあえず動かし掃除。相当埃が溜まっていました
 
古い冷蔵庫は廊下へ一次置きします。

13時ちょうどに業者が到着。手際よくまずは古い冷蔵庫を搬出します。
 
7月23日にK'sデンキで「小型冷蔵庫」と「ブラウン管テレビ」も持って行ってもらおうと、家電リサイクル料を払い手続きをしました。

冷蔵庫1台の搬入に対し、冷蔵庫大小各1台、ブラウン管テレビ1台を搬出。よろしくお願いします。
 
さて、新品の冷蔵庫の搬入ですが、どうやって運ぶのか一部始終を観察。トラックの前の方から背中におんぶをするように下ろします。スゲー!

そのままトコトコ歩いてわが家へ。調べたところ83kgだそうです。大人一人分ですね。このおじさん、中日の浅尾コーチと一緒に学生時代野球をしていたとか。社会人でも野球をしていたと行っていました。日本福祉大の出身ですかね
 
玄関前で梱包を解いて、いよいよ定位置へ移動です。今回も東芝製。GK-R41Gという機種。

廊下からリビングの定位置へ
 
冷蔵庫1台の搬入+リサイクル品3台の搬出で所要時間はわずかに15分。さすがに手際がいいですね。大切に長く使いたいですね。
令和2年8月7日(金)
~ NO.1220 4連休(最終回) ~
【7月25日(土)】
 4連休ではあるが、この日、京都から名古屋へ戻るので、外出するのはこの日が最終日となる。この日は福知山に向かい、福知山光秀ミュージアム福知山城の見学が目的。夕方から長女・ゆかこがアルバイトがあるというので、あまり遅くならないうちに京都に戻ってこなければならない。
 前回、7月上旬に行った亀岡市(京都府)は、比較的京都市内からも近く高速道路を使わず行ったものの、福知山市は同じ京都府でも、かなり日本海に近い。一般道の往復では時間がかかりすぎるので、今回は往復とも高速を利用した。それでも、途中、片側一車線の区間も多く、70km/h位で走ることもしばしばだったので、思った以上に時間がかかった。

京都市内から利用する高速道路のICの近くにコメダ珈琲・洛西店があったので、この日はここでモーニング。名古屋の人はコメダに行きましょう
 
前回の小川珈琲のモーニングは高かったので、今回は飲み物を頼むとトーストが付いてくる名古屋では当たり前というか馴染みの方式のコメダが嬉しいですね

 福知山市にやってくるのは公私とも初めて。
 今年で30回を数える福知山マラソンも、エントリー数が9,000人を超える人気大会。毎年11月23日に開催されるが、今年はすでに中止が決まっている。明智光秀ミュージアムと福知山城を見に来ようという機会がなければ、おそらくマラソン大会くらいしか私には用事のない街だったかもしれない。

 福知山市は人口約76,000人の都市。京都では、京都市、伏見市(現京都市伏見区)に次ぎ、三番目に市制を施行(昭和12年)している。当時の人口は32,000人程度。
 現在、京都府内では、①京都市(146.2万人)、②宇治市(18.0万人)、③亀岡市(8.6万人)、④長岡京市(8.0万人)、⑤舞鶴市(7.9万人)、⑥木津川市(7.7万人)に次いで7番目に人口の多い都市となっている(全部で15市)。

 京都市内から2時間弱で福知山市に到着。
 福知山市には初めて来たものの、ごみごみした感じもなく落ち着いた城下町という感じ。福知山城のそばの無料の駐車場に自動車を停めて、まずは明智光秀ミュージアムのある方へ向かう。駐車場には結構な数の車。順番待ちをするほどではないものの、京都以外のナンバーの自動車も結構見かける。

 チケット売り場では、明智光秀ミュージアムと福知山城のセットで購入。福知山城も見るからに立派な感じで、こちらの見学も楽しみな感じ。
 福知山光秀ミュージアムは、福知山城公園内にある「佐藤太清美術館」(※ 佐藤太清(さとうたいせい)は、福知山市出身の日本画の画家)を改装したもの。入口の張りぼてのパネルまでは写真撮影はOKであるが、内部は他の大河ドラマ館と同様、写真撮影が禁止。さすがにここは、岐阜の大河ドラマ館と違って丹波攻略から福知山城を築城するまでの歴史の紹介が中心となっている。やはり地元に根ざした内容となっているのが特徴。内部を紹介できないのが残念である。

 福知山光秀ミュージアムを出てからはいよいよ福知山城へ。
 福知山城は、丹波平定を成し遂げた明智光秀が1579年に築城したものであるが、明治に入り廃城令により取り壊されたが、昭和61年に再建され現在の姿となっている。
 福知山城の石垣は、寺院や墓石をかなりたくさん利用した「転用石」が多く使われているのが特徴。そのほか、本丸に残る深さ50mの豊磐井(とよいわのい)と呼ばれる井戸もみどころだ。

駐車場に自動車を停めて福知山光秀ミュージアムへ向かいます。福知山城も見えますね。
 
錦帯橋のようなアーチ型の橋を渡ります。やや歩きにくいですが、観光用に作られたのでしょう。

こちらでチケットを購入。福知山光秀ミュージアムと福知山城とのセットの入場券を購入。
  福知山光秀ミュージアムは「佐藤太清記念美術館」を改装したものです。

ここから先が福知山明智光秀ミュージアム。残念ながら写真撮影禁止です。
 
福知山光秀ミュージアムの鑑賞を終えてからは、坂を登って福知山城へ向かいます。

現在の福知山城は、昭和61年に再建されています。大半が寄付金で福知山市の一般財源からの支出はほとんどないというから驚きだ。
 
こちらは福知山城のウリの一つの「転用石」。寺院や墓石からの転用されたものという。

石垣のあちこちに転用石が目立っている。
 
こちらは「豊磐井(とよいわのい)」という井戸。井戸の深さは50メートルで、城郭本丸内の井戸としては日本一の深さとか。

こちらにこの井戸の解説があります。
 
せっかくやってきたので写真を撮りました(長女・ゆかこ撮影)

ここでもコロナ対策。体温の測定と消毒を行ってから城内に入ることになります。
 
いよいよ城内へ。

 城に入る前に見所の多い城も珍しい。
 外観は木造のようになっているが、建築方法としてはコンクリート造り。天守から見る福知山の風景もよかった。築城した明智光秀は、どのように思ったのであろうか。
 
 

福知山城の歴史が簡単に紹介されています。
 
福知山城の見学後は、城下のお店「魚福」で昼食。

静かな感じのお店でしたが、やや高めか。
 
私が頼んだ天ぷら定食。

夕方からアルバイトという長女・ゆかこを送った後、京都駅前のヨドバシカメラにある「トラジ」で今度は長男・かずたかと待ち合わせ。
 
長男・かずたかは大阪・堺からやってきました。来る時間が遅いので、カミさんと先に始めました。

トラジもまあまあですが、コスパは「弘」の方が上手のような気がします。
 
お盆には名古屋に帰省するとのこと。社会人一年生になりました。
令和2年8月6日(木)
~ No.1219 4連休(その4) ~
【7月24日(金)・坂本城趾ほか編】
 西教寺の見学を終えて、自動車で「滋賀院門跡」へ向かう。
 滋賀院門跡とは、元々、京都の北白川にあった法勝寺を、江戸時代初期に現在地に移し、のち後水尾上皇から「滋賀院」の号を賜わったもの。江戸時代末まで天台座主となった皇族代々の居所であったため「滋賀院門跡」と呼ばれいる。
 ここも「びわ湖大津光秀大博覧会」の会場の一つで、先ほど購入したチケットの中にもあったので立ち寄る。こちらは先ほどの西教寺ほど明智光秀との関わりがないせいか、観光客も少なくひっそりとしていた。ただし小堀遠州の手がけた庭園は、さすがに名勝というだけあって、素晴らしいものと感じる。

こちらが滋賀院門跡。駐車場はこの先の右側にありました。
 
入口はどこでしょうか・・・。

順路と書いてあるとおりに行ってみました。
 
どうやらここが入口のようです。びわ湖大津光秀大博覧会の部分に関しては写真撮影ができなかったのでお見せできないのが残念です。

苔がきれいですね
 
こちらは小堀遠州の手がけた庭園。国の名勝となっています。

 さて、大津で最後に見ておく必要があるのは「坂本城」。
 坂本城とは、比叡山焼き討ちの後、明智光秀に近江国滋賀郡が与えられ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして築城したもの。宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』では、安土城につぐ天下第二の城と評されるほどの素晴らしいものであったようだ。
 本丸がびわ湖に面したという造りで、びわ湖側からは攻めにくい位置としたことが面白い。現在は壊されてしまってはいるものの、びわ湖が渇水になると当時の石垣が湖面の下から現れてくるという。
 坂本城址公園に自動車を停めるものの、公園内に見所はあまりない。城址公園とは名ばかりで、元々坂本城のあったところから少し南側に位置するので、厳密に言えば城跡ではない。公園内には明智光秀とはどう見ても似ても似つかぬような石像があったり、「光秀の意地」なる歌詞の書かれた石碑など、もう少し公園を上手に整備できなかったのかと思う。
 また、城址公園から少し離れたところで、坂本城の二の丸があった場所に碑があるのでそちらも確認しておいた。
 最後に面白かったのは、村田さんという個人の所有する土地の中に「明智塚」があること。塚の由来について、「土岐氏から拝領した宝刀を城の主柱下に埋めた跡である」、「明智光秀秘蔵の愛刀が埋まっている」などの伝承が残っているが、いずれも真相は定かでない。いずれにしても個人の土地を開放しているところが見所だと思う。

びわ湖湖岸の坂本城址公園にやってきました。とりあえず「坂本城趾」という碑がどーんと建っています。
 
広くはないですが駐車場に自動車を停めて公園内を散策。

案内やら石碑などいろいろ何かありそうです。
 
こちらは坂本城のあったところの説明。現在地を見ると坂本城の本丸のあったところの南側で、どうも城があった場所から少し離れているようです。

こちらは明智光秀の石像。短足で不格好な明智光秀を初めて見ました。
 
明智光秀の詠んだ句でしょうか。石碑には詩歌にも造詣が深かったと記されています。

こちらは「光秀の意地」という歌のようです。今でいう応援歌のようなものですかね。
 
目の前はびわ湖。坂本城は、ここよりもう少し北側、写真でいうところの左側にあったようです。

坂本城址公園をあとにして、坂本城の二の丸があったというところにやってきました。湖からは離れ、内陸の方になります。
 
ここにも「坂本城趾」と碑が建っていますが、こちらの方は本当に坂本城があったところに建てられているようです。

坂本城の歴史が簡単にまとめてあります。山崎の戦いの後消失してしまいますが、安土城に次ぐ豪華絢爛な城だったことも書かれています。
 
坂本城趾のあとは、明智塚にやってきました。ここは、「土岐氏から拝領した宝刀を城の主柱下に埋めた跡である」、「明智光秀秘蔵の愛刀が埋まっている」などの伝承が残っていますが真相は謎のまま。

説明書きにあるように、ここは「村田さん」という地主さんの土地の中にあるようです。隣に「村田製材所」があるので、その村田さんでしょうね。
 
こんな感じで、地主さんの好意で足を踏み入れることができるようになっています。

 大津を後にして、今度は京都に向かう。
 残りの予定は「明智光秀の胴塚」と「明智藪」の2つ。いずれもガイドブックの住所をナビに入力して場所を探す。胴塚については、近くに何も案内がなくウロウロ・・・。サイドガイドブックを見ると「コイン精米所のそばにひっそりある」と書いてある。「ん?おっ、そこにコイン精米所が!」ということでようやく発見。コイン精米所でもいいが、「直売ぶどう粟津農園」の方が目印になるような気がする。
 「胴塚」については、ここに直接胴体が埋められているわけではなく、農民に刺されたという明智藪の近くに胴体を埋めたようであるとのこと。この胴塚はその伝承を伝えるために地元の有志で作られたものとのこと。なるほど。

こちらが明智光秀の「胴塚」。
 
昭和45年(1970年)に地元の有志で作られたとあります。

ガイドブックに掲載された目印のコイン精米所。
 
私はこちらの方が目印になったと思いましたが・・・。

 最後は「明智藪」。こちらはまさに明智光秀が刺されたという現場。こちらもナビによると住宅地の方にある感じだ。付近まで来ると、文字は小さかったものの「明智藪」の表示があった。道幅も狭く、路肩に車を停めて看板の指示通りに歩いて行く。少し歩いていったところに石碑があった。ただし、刺されたという現場まだこの先とのこと。なるほど、竹藪が現れ雰囲気が出てくる。400年以上経過しても、藪は宅地開発もされずに残っていたことになる。案内がなければ、本当にただの竹藪。山崎の戦いで負けて、すごすごと細い道を通りながら、坂本城に戻ろうとしていたのであろう。
 ここで刺されたのは、ほぼ事実であろうが、その後別の形で生き延びたという節もあるが、8月末から再開される「麒麟がくる」では、エンディングをどのように表現するのであろうか。楽しみは残る。

ここには「明智藪」の案内が小さいですけどありました。幟も「明智藪」と書かれています。
 
少し歩くと石碑がありました。

現場はこの少し先のようです。ここは石碑だけ。
 
明智藪というだけあって、400年以上経過した今も藪でした。

竹藪には、それらしき碑が建っています。
 
別の角度で見るとこんな感じ。

ちょうど、農民に刺された想像画もありました。
 
道路でも通すのでしょうか。藪のすぐそばは、土地開発がされていました。

 そして午後8時から、長女・ゆかこと合流して「弘」で遅い夕食。この店については、このサイトで何度も登場してくるので、あえて説明をする必要もないだろう。いろいろ注文しても、会計はリーズナブル。たくさん食べなくともおいしいお肉を食べたい方にはおすすめのお店であることは間違いない。(続く)
 
 
 
 
 
 
令和2年8月4日(火)
~ No.1218 4連休(その3) ~
【7月24日(金)・西教寺編】
 この日は滋賀県の西教寺、坂本城跡、明智塚のほか、京都市内にある明智光秀の胴塚、明智藪を見学し、夕方、長女・ゆかこと合流、親子3人で会食の予定。

 この日は午前10時過ぎのやや遅めの出発。名二環、伊勢湾岸道、新名神、名神と高速道を乗り継いで大津へ向かう。最初の目的地は西教寺。
 西教寺の概略を説明すると、天台宗の一派である天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山。寺伝では、聖徳太子が創建し、のちに天智天皇から西教寺の勅願を賜わり、平安時代に延暦寺中興の祖良源(りょうげん)が、続いて横川の源信(げんしん)が庵を結んで修行道場としたと伝えられている。
 その後、荒廃していた時代が続き、室町時代末期に延暦寺で修行を積んだ真盛が入寺して再興している。   また、戦国時代、織田信長による延暦寺焼き討ちで焼失した後、明智光秀が寺の復興に尽力したことから、境内には、光秀一族の墓もあるというもの。西教寺にとっては、明智光秀は恩人という立場に当たるということだろう。

こちらが西教寺。立派な構えです。この西教寺の総門は、明智光秀の住んでいた坂本城の城門を移築したものとか。
 
入口には立派な石碑が建っています。

こちらには「明智光秀公と一族の菩提寺」の碑があります。お寺への貢献度がうかがえます。
 
入口でチケットを購入。西教寺の拝観料、びわ湖大津光秀大博覧会のセットの入場券を買いました。

入ってすぐに緩い上り坂となっています。すぐ右が博覧会の会場です。
 
こちらが博覧会の会場。「禅明坊光秀館」というのでしょうか。

こちらが入口。チケットを渡し、検温などを行います。確かに奥に「禅明坊光秀館」とあります。
 
ここまでは写真撮影が可。これ以降は大河ドラマ館と同様、写真撮影は不可です。詳しくレポートできないのが残念

こちらは写真撮影が不可ではなかったので撮影しました。明智光秀が居城とした「坂本城」の想像画です。びわ湖に面したところに立てられていたようです。

また、こちらは西教寺の唐門からびわ湖を見た風景は、写真を額縁に入れた感じにも似ているとか。あとで現地に行ってみましょう

こちらは土産物売り場。少々閑散としていました。
禅明坊光秀館の前もきれいに整備されていました。さすがに総本山だけあって隙がないという感じです。

 西教寺の駐車場は広く、「麒麟がくる」で明智光秀が脚光を浴びているせいかもしれないが、思った以上に訪れている人は多い。入口でチケットを購入し中に入る。西教寺に入ってほどなく右手の施設で「びわ湖大津光秀大博覧会」を開催している。見かけは”お堂”であるが、中の雰囲気的は「大河ドラマ館」とほぼ同じといっていい。ここでもこれを見たさに人が集まってきている雰囲気がひしひしと感じ取られる。

 博覧会を見学した後は西教寺の本堂の方へ向かう。西教寺は天台真盛宗の総本山というだけのことはあってなかなか広くて移動するのに時間がかかる。かなり上ったところに「唐門」があり、ここから観るびわ湖の風景が絵画のようであると説明があったので、そちらの方にまず行ってみる。確かに額縁に納まった感じであるが、私の撮影の仕方が悪いのか、先ほどの禅明坊光秀館で見たような感じにはうまく撮影ができない
 その後拝観料を払ったので、所定のルートで本堂などを見学する。本堂も確かに大きいが、これ以外にも非常に見所は多い。写真撮影ができないが「客殿」がいい。もてなしの部屋とは当時でもこういう豪華なものであったかと・・・。また、庭園が立派なのには感服する。それにしても庭園の多いこと多いこと

こちらが「唐門」。この下の門が額縁。その先のびわ湖の風景が絵画のようだといわれていますが・・・
 
私の撮影の仕方が悪いのか、全く雰囲気が出ていません。桜のシーズンに撮影をするべきでしょうか。

こちらは本堂。構えもでかいです。
 
この先は有料施設。先ほど下で買ったチケットを渡して中に入ります。カミさんは、ここで御朱印をお願いしてました。こちらが大本坊のようです。

入ってすぐのところにいきなり整備された庭園が・・・。
 
こちらは「明智光秀と熙子」のご位牌法安所とあります。可児市(岐阜県)の天龍寺にも明智光秀の位牌がありましたが、いくつも位牌はあるものなのでしょうか。

ふすまに桔梗の門が入っています。明智家を表したものですね。この奥にあるのが位牌のようです。
 
こちらは「大本坊」とあります。比叡山焼き打ちの後に坂本城主となった明智光秀が西教寺を菩提寺に使用として坂本城の陣屋を寄進して再建したものとか。

張りぼてがちょっと安っぽい感じがします。
 
有料施設の見学は、この廊下をぐるりと回っていきます。

木の回廊なので歴史を感じさせます。本堂をぐるりと回った先には「客殿」がありますが、これが素晴らしい。撮影禁止でお見せできないのが残念。
 
庭園も素晴らしいですね。このほか明智光秀資料館もあり、なかなか見所が多い西教寺です。
 

 そして最後に、明智光秀と一族の墓を見ていく。西教寺の本堂前にこれらの墓がある。
 1571年に織田信長は比叡山を中心に近江の国の寺院を焼討にし、この西教寺も災禍を被ったものの、その後、坂本城主となった明智光秀が復興に大きく力を注ぎ、1574年に仮本堂を完成し、現在の本尊(阿弥陀如来)を迎えている。
 西教寺にとって、明智光秀とは復興に尽力をしてもらった人物であり、大いに恩があったことがよくうかがえる。(続く)

こちらが明智光秀と一族の墓とか。
 
こちらにその説明書きがあります。

矢印のお墓が、明智光秀の正室・熙子のお墓とか。
 
熙子の墓の説明があります。麒麟がくるで、熙子も一気に有名になってしまいましたね。
 
こちらは松尾芭蕉が「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」(閑静な月明かりのもとですが、明智の妻の話をしましょう)と詠んだ句碑。
令和2年8月3日(月)
~ No.1217 ノートパソコン買い換え ~
 2月頃からノートパソコンの調子が悪くなり、だましだまし使ってきましたが先週末とうとう限界に達しました。症状としてはノートパソコンのディスプレイが映らなくなるというもの。修理に出して直してもらうという方法もありましたが、
 ①ちょうどこれからお盆の時期に入るため修理に時間がかかること
 ②修理に出しても高額な修理代のかかる恐れのあること(なおる保証があるわけでもない)
 ③3年使用してバッテリーの性能がやや落ちてきたこと
 ④修理中は、パソコンの使用ができないこと(不便)
・・・などの理由もあり、思い切って買い換えることにしました。
 先々月くらいから、買い換えについては検討をしており、価格や機種は概ね検討済み。お盆に帰省の際に名古屋で購入しようかと思っていましたが、少し時期が早まりました。

 8月1日(土)、昼から単身赴任先から一番近くの家電量販店であるヤマダ電機・市川本八幡店へ出かけます。ここにはプリンターのインクやひげそりの購入など時々出かけるお店です。パソコン自体はたくさんのモデルが置かれているわけではありませんが、ある程度機種を決めていたので数モデルが置かれていれば十分です。
 店員さんと少し値引き交渉を行い購入決定。今回購入したのは、前回とと同じく富士通でUH90/D2というモデル。このモデルに決めた理由はバッテリーの駆動時間が長いということ。重量は855gで600g台のパソコンと比べると少し重いのですが、店員によるとバッテリーが多い分だけ重いとのこと。

 さっそく帰ってからセットアップ。前のパソコンからのデータ移管などを行い、夜遅くに使用できるようになりました。ちょうどホームページの更新もこの新しいパソコンで行っています。
 今日から出勤の際にもこちらのパソコンを持ち歩きますが、軽量化されバッグが軽くなるのでうれしいですね。

さっそく購入してきました。レジ袋も有料なので箱のまま単身赴任先へ。855gなのでたいした重さではありません。値段は16万4,800円でしたが、4,800円を引いてもらい16万円ちょうど。消費税込みで17万6,000円です。
 
開けてみるとこんな感じ。ぶっきらぼうな「黒色」。お洒落感もありません

JCBのギフト券5,000円と32GBのUSBをもらいました。ちょうどデータの移管に使いグッドタイミングです。そのほか5%分がポイント(8,000ポイント)。クレジットで購入で1%がポイント(1,760ポイント)。概ね2万円分の値引きになりました。デジカメが壊れたのでちょうど購入するのによいだけの金額になってきました。
 
左側が古いノートパソコン。右側が今回購入したノートパソコンです。左側のノートパソコンも起動していますが、ディスプレイが映りません。以前、バッグごと落したせいでしょうか、それから少しずつ調子が悪くなっていきました。

HDMIのケーブルでテレビに接続して、こちらで画像を移して週末はしのぎました。内部は正常ですので、データの移管はスムースに終わりました。
 
こうして、8月2日(日)にはほぼ通常通りに使用できるようになりました。大切に使っていきたいと思います。
令和2年8月2日(日)
~ No.1216 4連休(その2) ~
【7月23日(木)・後半】
○久し振りの大正村
 瀬戸をあとにして恵那市へ向かう。今日の目的地は、ぎふ恵那大河ドラマ館をはじめとする周辺の明智家ゆかりの地を訪れることである。この地は、現在は恵那市であるが、かつては恵那郡明智町と呼ばれていた。平成16年10月に旧恵那市に岩村町、山岡町、明智町、串原村、上矢作町が合併し現在に至っている。

 私にとっての旧明智町は、旧明智町時代から参加している「大正村クロスカントリー」に過去4度出場しそのうち2度優勝をしていることもあるほか、トライアスロンシーズンになると名古屋からこの旧明智町まで片道約50kmの山道を自転車で何度もトレーニングに来たこともあり非常に馴染みがある。子どもたちが小さい頃、2~3回ほど遊びに来たこともある。単身赴任をするようになってからは、旧明智町にはパタリと来なくなったので、ここにやってくるのは何年ぶりだろうか。

 一般国道ではあるものの信号もほとんどなく快調に走る。旧明智町に到着したのは午後3時前。日本大正村の無料駐車場に自動車を停めて、まずは大正ロマン館に向かう。ここの1階が「ぎふ恵那大河ドラマ館」になっている。これまで、「岐阜大河ドラマ館」、「ぎふ可児大河ドラマ館」、「京都大河ドラマ館」と3つ訪れているので、今回が4つ目で最後の大河ドラマ館になる(※ 大河ドラマ館ではないが、このほかに「びわ湖大津光秀大博覧会」や「福知山光秀ミュージアム」も大河ドラマに合わせてイベントが開催されている)。さすがに4つ目ともなると慣れもあるがワクワク感はやや少ない。

大正村の駐車場に自動車を停めて、まずは「ぎふ恵那大河ドラマ館」に向かいます。ここは観光案内所です。
 
「旧明智町がなぜ大正村?」。その疑問は、日本大正村のサイトに書かれているので、そちらをご覧下さい。

雰囲気がいいですね。久し振りにここを歩きました。
 
左側の建物はお土産屋さんです。この辺りももちろんレトロな感じがたっぷり。

この先には「日本大正村役場(旧明智町役場)」があります。
 
これが「日本大正村役場(旧明智町役場)」。昭和32年まで使用されていたそうです。

こちらは「絵画館」。元は小学校だったそうです。
 
大正ロマン館にやってきました。

入口には明智光秀の石像があります。比較的新しいようです。
 
中に入っていきましょうか。

日本大正村の初代村長の「高峰三枝子」の銅像です。二代目が司葉子。現在は三代目で竹下景子さんが村長です。
 
大正ロマン館の1階が大河ドラマ館。入場券を買って中に入りましょうか。

 大正ロマン館で入場券を購入して、早速、中に入る。場所柄なのか、時期的なものかはわからないが、この大河ドラマ館も空いている。まあ、密にならないし空いているのでゆっくり楽しむことが出来るのはよいことだ。
 ただし会場は非常に小振りで、他の大河ドラマ館にあった「うつルンです」がここにはその機材が置かれていなかった。会場の広さの制約の関係かもしれないが少々がっかり。そのほかの出し物は、他の大河ドラマ館と比べても少なめで、入場料が安くなっているのも何となく頷ける。

ここが大河ドラマ館の入口。さあ、中はどんな感じでしょうか。
 
ここは写真撮影がOKです。

こちらは甲冑。明智家のものを再現したようです。
 
こちらは、スクリーンをストロボで撮影すると、絵が浮き出るという仕掛け。簡単な遊びですね。

旧明智町内での、明智家にゆかりのある場所を説明しています。
 
大河ドラマ館の出口を出ると、そこはお土産屋さん。大正村に係るものもそこそこ売られていました。

 大河ドラマ館を見学した後は、明智城跡に向かう。大正ロマン館から徒歩で行ける範囲とのことなので、トコトコとカミさんと歩いていく。

 ここ旧明智町にある明智城は、別名「白鷹城(しらたかじょう)」とも呼ばれ、可児市にある明智城が別名「長山城(または「明智長山城」)とも呼ばれるように区別して呼ぶことも多いようだ。こちらの明智城(白鷹城)は、1247年に明智遠山氏(遠山景重)が築城したもの。この遠山景重の直系で遠山景行が明智光安と同一人物という説があり興味深い。明智光安は「麒麟がくる」の中で明智光秀の伯父として登場してきているので皆さんもご存じであろう。この説が事実であれば、遠山景重こと明智光安が白鷹城の城主であったことになるが、どうも調べていくとこの説はかなり怪しいいうかかなり可能性の低い説のようである。

 道中の一部は東海自然歩道になっており、トコトコ歩くにはちょうどいい感じのところ。途中から徐々に勾配が厳しくなる。途中、天神神社を経由し、15分ほどで本丸に到着。現在は気が何本も生えていたり、切り株があったりと本丸があった雰囲気はあまりないが典型的な山城という感じであった。公園などに整備されているわけではないので、ひっそりとした感じであった。

大正ロマン館から見た明智市街。少し小高いところにあるので見晴らしがいいですね。
 
大正ロマン館から明智城趾に行く途中、一部東海自然歩道となっていました。

道中に「天神神社」があります。
 
天神神社は、明智光秀公が若かりし頃、京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招き、ここで学問に精進したと言われている。

こちらが天神神社。隣にも建屋があります。
 
もうすぐ明智城趾のようです。昔はこんなところを毎日登ったんですね。

このあたりが本丸。明知城は、標高530mの山に築かれた地形を巧みに利用した山城で、今もなお大小23の土盛砦が原型のまま残っている。
 
本丸の案内。旧明智町の観光名所の一つで、案内が整備されていますね。

明智城が地形を利用した山城で、攻めにくくしていることがよくうかがえます。
 
ぎふ恵那大河ドラマ館、明智城趾の見学を終えて駐車場に戻ってきました。写真は駐車場の前にある大正村浪漫亭。食事のほか、土産物の販売もしています。

 駐車場に戻ってきてからは、自動車で移動。この後に訪れたのは明智光秀の母親の「於牧の方の墓所」。明智光秀の母親「牧(麒麟がくるでは石川さゆりが演じている)」は、松の木に張り付け処刑されたという悲運の人生。「於牧の方の墓所」は、その後江戸時代に里人の民が建立したもので、供養塔のような位置づけのようだ。

この先に明智光秀の母親の「お牧」のお墓(供養碑?)があるようです。
 
当時の明智町観光協会が作った説明の碑がありました。

母親が殺害された怨みが信長にいったということを表しているのでしょうか。
 
こちらは母親が殺害されたことの説明が細かく書かれています。岐阜県教育委員会の説明文。

墓所は道路から少し入ったところ。てくてく歩いて行きます。
 

こちらがその墓所。
 
近くには説明があり、毎年11月下旬に供養祭が行われているようです。

 同じく、明智光秀が供養されている龍護寺、明智光秀の産湯として使った井戸などを巡ってきた。ぎふ恵那大河ドラマ館が開館している関係か、普段はこういうところを訪れる人がほとんどいないのであろうが、私らと同じようにぐるぐる回っている人を見かけた。(続く)

こちらは龍護寺。明智光秀の墓(供養塔)があるお寺です。
 
桔梗が植えられているので、明智家を偲んでいる感じがします。

さっそく中に入ってみましょう。
  入ってすぐ右側がその供養塔があります。

こちらは「明智光秀出生地」と書かれていますが、かなり怪しいといわれています。
 
龍護寺では、明智遠山氏と土岐明智家の系譜がありますが、途中の遠山景行と明智光安が同一人物ではないかということが書かれています。

また、明智城の城主の遠山景行の子孫に遠山景元がおり、町奉行の遠山の金さんこと遠山金四郎も明智遠山氏の家系であることが書かれています。
 
さて、最後に自動車で移動。千畳敷公園にやってきました。ここは、明智光秀の産湯につかったといわれる井戸があります。

駐車場に自動車を停めて少し歩きました。
 
同じく説明書きがありました。

産湯に使ったといわれている井戸の説明ですが、出生が怪しいので真偽のほどは・・・。
 
とりあえず、井戸には蓋がしてありました。
令和2年7月28日(火)
~ No.1215 4連休(その1) ~
 新型コロナウィルスの感染が拡大している中、みなさんはこの4連休をいかがお過ごしだったでしょうか。私の場合、7月22日(水)の午後に感染者の一番多い東京を脱出して名古屋に帰ってきました。とはいえ、愛知県も名古屋市を中心として感染者が激増。多い日は新規感染者が100人に迫る勢いです。4連休中は、一番よいのは大人しく家でじっとしてることになるのでしょうが、まあ人混みを避け、3密にならないように気をつけながら行動をすればよいだろうということで、連休4日間のうち3日間はカミさんとおでかけしていました。以下はレポートになります。

【7月22日(水)】
 この日は午後から休暇をとり、夕方から高速バスで名古屋へ。新幹線であれば片道11,000円程度かかるが、平日の高速バスであれば3,000円。JRバスが8月からまた普段の料金に戻すので、こちらであれば2,400円程度。時間はかかるが東京・名古屋の往復の回数が増えてくると交通費も馬鹿にならない。
 バスタ新宿から乗った高速バスは中央道経由で名古屋に向かうが、この日は首都高でやや渋滞が発生したため最初の休憩場所の双葉SAでは15分程度の遅れ。次の駒ヶ岳SAでは、休憩の間にお土産物を買う。リンゴパイと蕎麦がよいということでごっそりと買い込む。約4,000円の出費。バスは22時過ぎ、ほぼ定刻に栄に到着。さらに地下鉄に乗り換え、帰宅したのは23時過ぎ

バスタ新宿から名鉄バスセンター行きの高速バス(昼行便)が朝夕の1日2本。夜行便が1日2本あります。名鉄バスと京王バスが共同運行しています。
 
バスタ新宿16:10→栄22:13は名鉄バスの担当。この日の乗車率は40~50%程度。

休憩は双葉SA(山梨県)、駒ヶ岳SA(長野県)、恵那峡SA(岐阜県)の3カ所。このうち駒ヶ岳SAはお土産として購買欲をくすぐるものが多いです。カミさんからはリンゴパイのリクエスト。
 
子どもたちは「蕎麦(そば)」が欲しいとか。

結局、リンゴパイは一つ、蕎麦(そば)は3つ購入しました。蕎麦は、一番人気という商品です。
 
バスタ新宿~名鉄バスセンターまで6時間以上を一人のドライバーで運転するので休憩は重要ですね。

【7月23日(木)・前半】
 この日は連休の初日。今年は梅雨明けが遅く天候が優れない。午前中は天気の様子を見ていたが、晴れる様子もなく外出するかどか躊躇していたが、とりあえず「近場のぎふ恵那大河ドラマ館に行こう」ということでやや遅めの時間であるが恵那(岐阜県)に向けて出発。

○尾張旭で2日遅れの土用の丑の日
 今年の土用の丑の日は7月21日(火)と8月2日(日)。
 7月21日(火)は単身赴任先にいたので、スーパーで鰻の弁当を買おうかどうしようか迷ったが、名古屋に帰ってからカミさんと食べに行こうと思いこの日は我慢。恵那(岐阜県)に行く途中、尾張旭市内で信号待ちをしているときに美味しそうな店を発見。食事時でもあったので立ち寄ることとする。店の構えもいいし、雰囲気も出ている。この通りはこれまで20年以上の間に何度も通ったところであるが、これまでは全く気がつかなかった。「鈴松」というお店だ。
 お店に入るとエレベータで2階に通される。2階は個室になっており、割烹という感じがよく出ている。雰囲気的には夜のお店ではあるが、店外にも表示があるようにランチメニューも豊富だ。カミさんは「安いのでいいよ~」と言いながらも、ランチメニューの鰻丼(赤だし、茶碗蒸し付き。ソフトドリンク又は濃厚ソフトクリームの選択)というメニューを見てすぐに「これ」と気が変わる。私も同じものを注文する。
 鰻は少々小振りではあったが、鰻丼は美味しかった。2,250円(税別)ならばまずまずではないか。わが家からは少々遠いところではあるが、気が向けばまた立ち寄りたいところだ。

お店は名古屋と瀬戸を結ぶ国道363号線の真ん前にあります。いつもは通り過ぎて気がつきませんでした。
  お店の壁の「鰻に自信あり!」に惹かれてしまいました。鰻に弱い私・・・。

ランチメニューも800円の日替わり定食をはじめ豊富ですね。うな丼2,250円にどうしても目が行ってしまいます。
 
とりあえずお店に入りましょう!

お店では2階の個室に通されました。こちらでも「うな丼」がイチオシ!カミさんと2つ注文。
 
出てくるまで少々時間がかかりました。さばいて調理している感じですね。鰻はやや小振りでしたが、焼き加減もたれもよかったですね~!

茶碗蒸しも具がキチンと入っており、手抜きの無さが嬉しかったですね。
 
最後に出てきた濃厚ソフトクリーム。これで2,250円(税別)。みなさんはいかがでしょうか。

○瀬戸では藤井聡太さんの祝賀垂れ幕を確認

 食後、再び自動車を恵那(岐阜県)に向けて走らせる。
 今回は、高速を使わず一般道だけで恵那へ向かうので、道中、必ず瀬戸を通ることとなる。「愛知県で、今、一番活躍しているのは?」といえば、間違いなく「藤井聡太・棋聖」と誰もが口を揃えるだろう。彼の活躍は、ここで説明をするまでもなく、素晴らしいもの。最年少記録を次から次へと塗り替えていくところに期待感が大きい。コロナで、世の中が暗くなっている中で、いま日本では一番明るい話題ではないだろうか。
 その藤井聡太・棋聖の出身がこの瀬戸市(愛知県)。現在も住んでいるようであるが、この活躍をどのように祝しているのか。往路は瀬戸市役所へ、復路は瀬戸の中心的存在となった「瀬戸蔵」の前を通ってみた。結果は以下の通り。今や「瀬戸市」を知らなくても、藤井聡太・棋聖を知らない人はいないだろう。愛知県民の一人として、これからも彼の活躍を期待し続けていきたいと思っている次第。(続く)

こちらは瀬戸市役所。いつ立替をしたのでしょうか、新しくきれいになっていますね。垂れ幕が小さくてあまり目立ちません。
 
少し寄って見てきました。う~ん、もう一回り大きくてもよかったような気が・・・。

帰りに前を通った瀬戸蔵。指定管理者制度で、現在は瀬戸市が管理しているわけではありませんが、横断幕の記載内容が瀬戸市役所のものと同じです。
 
こちらの方が見応えがありますね。これからも愛知県民として活躍を続けてください。
令和2年7月13日(月)
~ No.1214 麒麟がくる(小旅行・最終回) ~
【7月5日(日)/最終日】
 3日目の最終日ですが、夕方大阪府堺市に住んでいる長男・かずたかのところに行くこと以外は未定。
 「西教寺に行く?」 「それ大津だから滋賀県だよ。次回にしよう」 「じゃあどこにする?」 「・・・。」という感じで決定打がなかなか出ず、「とりあえず延暦寺(比叡山)にしようか。」ということで最終日の午前中は延暦寺に行くことにしました。ちなみに延暦寺の方が京都府寄りですが、西教寺と同じ滋賀県にあります。比叡山ドライブウエイをうねうねと走ったので、西教寺の方が近かったかもしれません

 さてここで延暦寺の説明を少し。
 延暦寺は、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院で、天台宗(開祖は最澄)の総本山です。1994年(平成6年)には、古都京都の文化財の一部として、ユネスコ世界文化遺産にも登録されています。また、織田信長により焼き討ちにあったことでも有名です(←今回はこの関係で見学)。
 比叡山の山内は「東塔(とうどう)」「西塔(さいとう)」「横川(よかわ)」と呼ばれる3つの区域に分かれていますが、これらを総称して「三塔」といっています。結構広いので、今回は東塔のみ見学。

 長女・ゆかこは、アルバイトからの帰宅が遅く、この日はカミさんと二人で出発。京都市内から東進して府道30号線を走り、途中から比叡山ドライブウエイ(有料)を走りました。道はクネクネして京都府と滋賀県の境を行ったりきたりの感があります。景色は確かによかったですね。
 今回は、田の谷峠の料金所から延暦寺東塔までの往復で1,600円(JAF割引100円にての料金)。西塔、横川まで行ってきて戻ると、往復で3,000円以上かかるので、決して安い料金ではありませんね。

比叡山ドライブウエイの途中には展望箇所があります。ここはちょうど京都府と滋賀県の県境のようですね。
 
昭和33年に開通しているので、開通からは60年以上が経過。結構古い有料道路ですね。

雲が低く垂れ込めていてわかりにくいですが、眼下には琵琶湖が見えます。
 
もちろん京都側も見えます。こちらは京都市内の概略の案内図です。

 今回は時間の都合もあって「東塔」地区だけでしたが、思った以上に観光客はいました。さすがは世界遺産ですね。集客力が違います。ただし比叡山ドライブウエイを走っている車は少なかったので、一体みなさんどうやってここまで来たのか不思議です
 東塔地区での中心的な建造物は「根本中堂」。先に説明した織田信長の焼き討ちにもあっている施設です。こちらは残念ながら現在改修中で、従来の姿が見えず残念でした。「文殊楼」も行ってみてました。とても急な階段を登り2階部分に上がってみましたが、実際に内部を見てみますと歴史の深さを感じてしまいます。

延暦寺東塔地区の駐車場に到着。ここには初めてやってきました。
 
こちらでチケットを購入。東塔地区、西塔地区、横川地区の共通チケット。全部行けば割安でしょうが、時間もあるので・・・。ちょっと割高のような気がします。

国宝殿はこれまた別料金
 
こちらは大講堂。重要文化財とのこと。中でお参りとカミさんは御朱印をもらっていました。

昭和31年に焼失して、山麓の坂本にあったものを移築したものとか。どうやって移動させたのでしょうか
 
開運の鐘。とと書かれているので、ちょっと鳴らしてみたいですよね。

こちらからはわかりませんが、反対側には確か「1回50円。連打しないで下さい」というようなことが書かれていました。ちゃっかりしていますね。
 
こちらは改修中の根本中堂。織田信長に焼き討ちにあったうちの一つの建築物です。現在は大改修中で、すっぽり別の建築物中に納められてしまい全容が全く見えません。

延暦寺の歴史が説明されています。
 
織田信長による焼き討ちにあったことも書かれています。

こちらは改修のあらまし。
 
ちょっとがっかりですが、中に入りましょうか。基本写真撮影は不可ですので、中の様子をお伝えできないのが残念。

ここは撮影OKとのこと。
 
こんな感じですっぽり覆われています。

屋根の瓦も剥がされています。見たところ、釘は使用されていない感じでした。
 
根本中堂を出てから階段を登って文殊楼に行ってみました。この階段、実は恐ろしいくらいの勾配です。

別の角度で撮ってみましたが、躓くと一気に転げ落ちそうな角度です。
 
こちらが文殊楼。2階にも行くことが出来ます。2階には絵馬がたくさん飾られいろんな人たちが祈願をしているのがわかりました。ちょっと狭いので屋根裏部屋という感じですかね。

 延暦寺から昼過ぎに一旦京都へ戻り、親子3人で食事。JR二条駅の隣の円町駅のそばに評判のよい店があるというのがわかったので、そこで親子3人でランチ。「洋食の店ITADAKI円町店」といいます。店内は清潔感があり、もちろん料理も美味しかったです。これからも京都に来たらリピートしたいと思います。

京都に戻って親子3人で食事。私がよく泊まる円町のホテルの西側にこの「洋食の店ITADAKI円町店」があります。本当にホテルのそばですが、今まで気がつきませんでした。
 
こちらは店内の様子。コロナの関係で、隣とのテーブルの間には仕切りが設けられていました。お客さんが入れ替わる度に、店員さんが机と木の椅子をこまめに消毒していました。

こちらはランチメニューで、私が注文した「豚ロース肉の生姜焼き(1,139(税別)」。豚肉の厚いこと厚いこと
 
こちらは長女・ゆかこの注文した「ハンバーグセット(1,278円(税別)」。ハンバーグのほかにエビフライ、カニクリームがつきます。とにかく何を注文しても美味しいそうな盛り付けです。円町では人気のお店のようですね。

 さて、食後に長女・ゆかこをマンションまで送り、ここで今回はお別れ。今度は長男の住む大阪府堺市に向かいます。長女・ゆかこの住む京都市右京区から大阪府堺市まで高速道路を経由しても距離は70km程度。結構あります。近畿の道は詳しくないのでナビにお任せですが、上鳥羽ICから第二京阪、近畿道、阪神高速を経由して堺に行くというルートです。阪神高速がくにゃくにゃしているので、ちょっと走るのが面倒です。

 長男・かずたかとは18時の待ち合わせで時間が少しあるので、仁徳天皇陵に行ってみました。
 仁徳天皇陵は今回の大河ドラマ「麒麟がくる」とはまったく関係ありません。私の少ない知識で「堺といえば、仁徳天皇陵クライオワンハイドロエッジ」となってしまいます(後ろの二つは、私の仕事絡みの会社)。以前、クライオワンに見学に来たときに、遠巻きに仁徳天皇陵を見たことはありましたが、近くに行ったことはありません。長男・かずたかが大阪府堺市にいる間に、少しは堺に詳しくなろうということで今回は仁徳天皇陵を訪れました。

 仁徳天皇凌ですが、エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれています。日本では最大の前方後円墳で有名です。大阪府堺市には、この仁徳天皇陵のほかにも古墳がたくさんあり、百舌鳥・古市古墳群として世界遺産に登録されています。あまりにも大きすぎて近くに行っても、ただの森にしか見えません。上から全景を見渡せるところがないかと調べたところ、堺市役所の21階の展望台がよいということがわかり、さっそく堺市役所へ。駐車場に自動車を停める前に警備員さんに確認したところ、コロナの関係で現在は21階は開放していないとのこと仕方がないので、横から古墳を見るだけにしました。といっても中には入れるわけでもなく、横から見るだけでは面白みはないですね。

堺では今回の一番の目的の仁徳天皇陵へ行きました。夕方ということもあり堺市博物館は入管可能時間を過ぎてしまったので中には入れず
 
仁徳天皇陵の道路の向かいには大仙公園があります。大仙公園も広いですが、地図を見ると仁徳天皇陵の方が大きいですね。

仁徳天皇陵が大きすぎるので、現在位置が示されています。
 
こんなものや・・・

こんなものもあります。イメージをするにはちょうどいい大きさですね。
 
ここが仁徳天皇陵の入口で中央部分。

ここから先は入ることが出来ません。
 
天皇陵なので、管理は宮内庁のようですね。

お堀というのでしょうか、中央の鍵穴の形をしたところの外に3重となっているお堀の一番外側のお堀が見えます。
 
一度上から見てみたいですね

古墳の説明がいろいろとされています。周囲は2,718m。この古墳を作るのに680万人の人が従事したとか。一大プロジェクトですね。
 
仁徳天皇陵を後にして、10年ほど前に一度見学にきたクライオワンにも行ってみました。

もちろん日曜日なのでお休みの模様。また機会があれば見学をさせてもらいたいです。
 
こちらは長男・かずたかの住むマンション。今回は私があまり使わなくなったテントを運んできました。BBQとかするときに日陰になるものです。月火と休みとかで、このあと親子3人で名古屋に帰りました。

 近くの大仙公園を散歩したりして、18時に長男・かずたかのマンションへ。月曜日と火曜日が休みとのことで、この日は親子3人で名古屋に戻りました。仕事も慣れはしてきたものの、社会人特有の悩みもいろいろあるようですね。自動車の中でぶつくさ言っていましたが・・・。
令和2年7月11日(土)
~ No.1213 麒麟がくる(小旅行・その2) ~
【7月4日(土)/2日目】
 この日は、朝食を小川珈琲本店で摂ってから親子3人で京都府亀岡市へ向かうことにしました。小川珈琲は京都に本店を構える有名なコーヒー店です。世間では通販の方が有名かもしれませんね。店内は広いですが行ったときは満席で、少々順番待ちをしました。

ここが小川珈琲の本店です。社員の研修などが出来る施設があるため、喫茶店を含めビルになっています。
 
こちらが入口。

カミさんはこういうところが好きです。
 
コメダに行けばコーヒーだけでモーニングセットが出ますが、こちらはそういうシステムではないので少々値段は高めとなります。

 さて、朝食後は国道9号線を亀岡に向かって車を走らせます。京都市内から徐々に山がちになり、ついには片側一車線となります。山陰に抜ける主要道ですが、東海道、山陽に比べれば交通量の少ないことは一目瞭然です。
 亀岡市に行くのは今回が初めてです。長女・ゆかこの大学の同級生に亀岡市から通っている子がいるようですが「何も無いところ」といっているそうです。でも明智光秀は、ここから本能寺に出かけて行っています。一体どんなところか・・・。

 亀岡で行くところといえば、「京都大河ドラマ館」。サンガスタジアムが会場ですが、現在J2に在籍している京都サンガF.C.のホームグラウンドです。以前は京都パープルサンガと称しており、ホームグラウンドは西京極陸上競技場だったはずです。調べたところ、このサンガスタジアムは京都府が亀岡市に建設したものとか。人口約86,000人亀岡市(これでも人口は京都府では京都市、宇治市に次いで3番目とか)の財政では厳しいかもしれませんね。2020年1月に竣工なのでまだピカピカの施設です。確かにJR亀岡駅には近いので、交通の便は良さそうです。

 自動車を近くの駐車場において、京都大河ドラマ館に向かいます。この日も天候が悪く、あまりお客さんがいなさそうな雰囲気。大河ドラマ館もこれで3つめということもあり慣れてきました。検温したり、住所や連絡先を書かされたりも同じです。こちらも館内は同じコンセプトです。亀岡は、明智光秀を前面に押した感じなので、ぎふ可児大河ドラマ館、岐阜大河ドラマ館とはやや雰囲気が違ったような気がします。まあ、それはそれでよかったですね。

こちらがサンガスタジアム。今年の1月に竣工したばかりなのでピカピカです。球技専用競技場とか。
 
1階の「京都大河ドラマ館」に向かいます。こういうことには興味のなさそうな長女・ゆかこもこの日も同行。

こちらが入口。入ってからチケットを購入。ここでも検温、所定の事項の記入とコロナの影響で手続きがありました。
 
雰囲気が出ていていいですね。

入ってすぐのところに地元亀岡市の”ろうけつ染作家”の望主良三氏の作品が展示してあります。今年の3月に寄贈されたもので、明智光秀が本能寺に向かうときの様子だそうです。
 
こちらも館内が写真撮影禁止なので、撮影したのはこの一枚のみ。ここでも「なれルンです」が置いてありました。

 大河ドラマ館を楽しんだ後は、明智光秀が建てたという亀山城趾を訪問しようと思いましたが、雨脚も強くまた適当な駐車場もなくこの日は断念。亀岡市内で昼食を摂って京都に戻ることにしました(丹波亀山城趾は、宗教団体が管理しているので見学は手続きが必要のようです)。
 ただしJR亀岡駅のそばにある南郷公園には明智光秀の像があるので、そこだけ覗いてきました。

こちらは南郷公園。その向こうには川がありますが、元々は亀山城趾のお濠だったところだそうです。
 
こちらは道路に面したところにある明智光秀の像。

 さて京都市内に戻ったところで「次の行き先は?」ということになりますが、私の提案で「本能寺の変(1582年)」で有名な本能寺に行くことにしました。現在の本能寺は、移転をしたもので元々本能寺のあったところ(本能寺跡)は、現在、特別養護老人ホームになっています。跡地でもいいですから400年以上前に明智光秀に襲撃され織田信長は自害したと言われています。地元の人には知られているところかもしれませんが、さほど車の通りの少ないところに碑は立っていました。

ここにかつて本能寺があったことを示す「本能寺跡」の碑。
 
現在は、「本能特別養護老人ホーム」の一角にその碑があります。

織田信長が自害する際に火を付けられ焼失したことがここに書かれています。

 この日最後に訪れたのは「明智光秀の塚」です。
 1582年、先ほど行きました本能寺において織田信長を襲撃した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦いで豊臣秀吉に敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹薮で農民に襲われて自刃、最後を遂げたと言われています。 家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この塚のあるところに首を埋めたと伝えられているものです。
 現在、この塚のあるところはいわゆる路地裏。今年は大河ドラマで主役ではあるものの、歴史的には織田信長に隠れるような存在のため、塚についても「道三塚」以上に地味な感じの扱いのような気がしました。(続く)

「明智光秀の塚」が路地の奥にあるせいか、案内看板がありました。
 
自動車が入れないような狭い路地です。

こちらが「明智光秀の塚」。塚というのはどこもさほど大きいものではないようですね。
 
明智家の家紋である桔梗がここでも見ることが出来ました。

山崎(天王山)の戦いで豊臣秀吉に敗れ、大津の坂本城に戻る際に現在の伏見区にある小栗栖というところで地元の農民に襲われ自害したとか。

こちらの塚は「光秀公」と書かれています。
 
塚というのはこういうものでしょうか。それほど大きなものではありません。明日は県境を越えて滋賀県にある比叡山・延暦寺に行く予定です。
令和2年7月9日(木)
~ No.1212 麒麟がくる(小旅行・その1) ~
 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」はお休み中で進展がありませんが、その隙を突いてとばかりにカミさんと明智光秀やら織田信長に関係しそうなところを旅してきました。日程的には2泊3日ですので、分割してレポートします。

【7月3日(金)/1日目】
 7月の上旬、カミさんが関西にいる子どもたちのところに遊びに行くというので、私もくっつていくような感じで同行。7月2日(木)の夜遅くに、東京の職場から名古屋の自宅に戻ってきました。
 7月3日(金)~7月5日(日)で京都を含めてあちこちに出かけようとは言っていたものの、行程については全く無計画。「とりあえず、初日は清洲城と岐阜の大河ドラマ館、金華山に行こう。あとは道三塚かな」ということで出発。

 最初に訪れたのは清洲城。織田信長が桶狭間の戦いの時に出陣していったということで有名になりました。今回の大河ドラマの前半の最終回でもそのことは取り上げられていますね。現在は復元した清洲城がありますが、本来は隣の清洲公園にあったそうです。この日は平日ということもあり、訪れている人はちらほら。清洲城は名古屋を新幹線で出発して数分。京都方面への進行方向の右手に見えてきます。注意していれば気がつくので、一度は車窓からもご覧下さい。ただし、現在は改修中で外からはシートがかけられているので、少々、気がつきにくいかもしれません。

隣接する駐車場から見た清洲城(復元)。現在改修中で全体にシートがかけられよく見えません
 
駐車場側は裏口のようですが、ここから中に入ります。

庭園がきれいに整備されていました。もちろん立入禁止。
 
ここでチケットを購入。下駄箱に靴を入れて見学開始。

清洲城主でもやはり有名どころは織田信長。桶狭間の戦いもここから出陣していきました。
 
当時の人の生活を再現したもののようです。

こちらは、敵が攻めてきたときに、城の上から石を落とすという「石落とし」の仕掛けの説明。
 
中スポ(中日スポーツ。地元のスポーツ新聞)に似せて作った「戦国中スポ」。当時、新聞があったらこんな感じだったのでしょうか

桶狭間の戦いについても、もちろん説明がされています。
 
もともと清洲城があったのは、川を挟んで反対側の清洲公園だったようです。写真の左側には東海道新幹線がありますので、車窓からも注意していれば清洲城を見ることが出来ます。

 次に訪れたのは道三塚。マラソン大会で何度も訪れていた岐阜メモリアルセンター長良川競技場からさほど遠くもないところにあります。道三塚は、特に案内看板もなく自動車でウロウロしながら見つけました
 道三塚とは、美濃を納めていたマムシの道三こと斎藤道三が葬られているもの。元々は、現在の場所とは異なる別の場所にあったようであるが、度々、長良川の増水によって流されてしまったこともあり移転したようです。「麒麟がくる」での斎藤道三は、序盤においてかなり目立つ位置にいて記憶に残る存在でしたよね。最後は長男との戦で敗れ亡くなってしまうという派手な一生であったのも記憶に残るでしょう。斎藤道三はもちろん岐阜市内では有名な人物。その割には、道三塚は意外と地味に残っているというか、静かにひっそりとしたところにあるという感じでした。

岐阜メモリアルセンター長良川競技場からさほど遠くないところに道三塚はありました。周りは民家だらけです。
 
「史跡 道三塚」と碑が立っています。

斎藤道三について説明があります。明智光秀や織田信長との関係も紹介されています。
 
これが「塚」ですかね。塚そのものは小さいですね。

植樹されている木が大きくて、塚そのものはやや貧弱な感じという感想。
 
昨年立てた幟でしょうか。風雨にさらされて、あちこち破れているのが少々気になります。

 道三塚を後にして、この日のメインの岐阜大河ドラマ館へ移動します。道三塚からは時間にして10分ほどでしょうか。岐阜大河ドラマ館は、金華山の麓の岐阜公園内にある岐阜市歴史博物館の2階を利用していました。ぎふ可児大河ドラマ館と同様、イベント用の仮設の建築物が建てられているわけではありません。

 岐阜大河ドラマ館は、岐阜市にあるということもあり、明智光秀以外にも先に紹介した斎藤道三や岐阜城にも一時居城としていた織田信長の方にやや強めのスポットが当てられている感がありました。
 またぎふ可児大河ドラマ館と基本的には同じようなコンセプトで作られていますが、大河ドラマ館めぐりをする私らのような人にも楽しめるように、少しずつ違う工夫はされています。館内は撮影禁止ですが、書く大河ドラマ館ごとに人物、背景をそれぞれ選択し自分の顔をそこに合成して大河ドラマに出てくる人物になれる「なれルンです」がありますが、これはここでも好評でした。違う意味で大河ドラマ館の中で写真撮影ができる貴重なスポットでもあります。訪れた日が平日の雨天ということもあり空いていましたね。

公営の駐車場に自動車を停めて、岐阜公園にやってきました。
 
通りの両側に幟が立てられ雰囲気が出ていますね。

幟は見たとおりです
 
岐阜大河ドラマ館の会場である岐阜市歴史博物館に到着しました。バブリーな時期に建設されたのでしょうか重厚な感じがします。

こちらは博物館の隣にあるお土産物売り場。こちらは仮設で建てられたものです。
 
さて、入口にやってきました。チケットを購入してから検温や名前の記載などをします。コロナの関係ですね。ここもかという感じでした。

階段を上がって2階が会場です。会場は一部を除き写真撮影が禁止。詳しい内容をお伝えできないのが残念です。
 
ぎふ可児大河ドラマ館と同様「なれルンです」がありました。私は斎藤道三をチョイス。背景は岐阜に来たので稲葉山城です。

うつルンですの撮影風景。目の前の機械の前に立ちます。機械のカメラの方を向いて撮影します。2回シャッターが押されるのでいい方をチョイス。別のところに撮影した結果が出ますので、30秒以内に自分のスマホで撮影するという仕組みです。
 
殿様気分を味わえるというセット。私も座って一枚撮影してもらいました。

カミさんは、斎藤道三役の木本雅弘のパネルと一枚記念に撮影。
 
こちらもドラマに出てくる人たちのパネル。もちろん一緒に撮影ができます。

大河ドラマ館を出て、フードコートに立ち寄りたこ焼きを購入。カミさんとランチ?お店は「織田信長」とあります。
 
平日のお昼をかなりすぎた時間帯ということもあって、人影は少なかったですね。

 大河ドラマ館を出て、この日最後の目的地である岐阜城へ向かいます。
 岐阜城は標高329mの金華山の頂上にある山城です。城主が斎藤道三の頃「稲葉山城」と呼ばれていましたが、1567年に織田信長は本拠地を小牧山城(愛知県小牧市)から稲葉山に移ったことを機として、古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで、この城と町の名を「岐阜」と改めています。

 金華山に登るのは何年ぶりでしょうか。わが子どもたちがおそらく未就学児の頃に、頂上にある「リス村」に連れて行って以来ではないですかね。金華山は徒歩でも登れますが、一般の観光客はロープウエイを利用します。眺めもなかなかいいので、頂上に行くにはロープウエイはオススメです。

 ロープウエイを降りてからは岐阜城へ向かいます。こちらは清洲城と同じく復元をしたものです。ロープウエイ乗り場からテクテク歩くこと約5分で岐阜城に到着。途中には階段もあるので、以外と時間はかかります。
 検温や書面での住所などの記入を終えてからチケットを購入。内部は展示物や岐阜城の歴史を紹介しています。最上階へ行くと岐阜市内が眼下にきれいに見えます。この日は雨天のため、ややしっとりとした感じでした。
 それにしても標高329mもある岐阜城から麓まで、いちいち上り下りするのはさぞかし大変であったかと。昔の人はそういう労を惜しまずに上り下りを繰り返していたのでしょうか。

大河ドラマ館から歩いて5分ほどで金華山ロープウエイ乗り場にやってきました。こちらも岐阜公園内にあります。
 
ロープウエイ乗り場にも「麒麟がくる」関係のセットがありました。こちらは岐阜ゆかりの斎藤道三が中心です。蝋人形は木本雅弘そっくりでよくできています。

この先がロープウエイ乗り場。
 
15分間隔で運行しています。乗るのは何年ぶりでしょうか。子どもたちをリス村に連れて行って以来ですね。

雨でロープウエイのガラスが濡れていますが、ロープウエイが上昇するごとに岐阜市内が眼下に広がっていきます。
 
数分で山頂駅に到着。

今日の目的地は岐阜城(復元)。道中、織田家の家紋の幟が立っていますが一本道なので迷うことはありません。
 
思ったよりもロープウエイの山頂駅から距離がありました。

岐阜城が見えてきました。麓からはいつも見ていましたが、近くに来てみるとなかなか立派な感じです
 
階段が多いですね。

最後も階段。バリアフリーが厳しい施設のようなので、歳をとる前に来てよかったです。
 
平成21年にJR岐阜駅前に織田信長の金箔像が建てられました。こちらは、そのレプリカが岐阜城に飾ってあります。
 

こちらは模型ですが、金華山の頂上に岐阜城が建てられていることがよくわかります。
 
屋根の棟を飾った金箔瓦。復元したものですが、菊の紋と牡丹の紋に金箔が使われていたようです。

木造の織田信長の座像(復元)だそうです。
 
こちらの肖像画は、よく見るものですね。

天井も豪華絢爛だったようですね(復元)。
 
天守閣まで来ました。金華山山頂が329mなので、岐阜市内がしっかり見渡せます。中央を流れるのは鵜飼いで有名な長良川です。

 この日の大河ドラマ関係の旅は終了。東海北陸自動車・一宮木曽川ICから京都へ向かいました。夕方からは、カミさん、長女・ゆかこと3人で外食。お馴染みの焼肉の「弘(ひろ)(千本三条本店)」が会場です。今回もガッツリ食べてきました。いいお肉を扱っているお店で、何度行っても十分楽しむことが出来ますね(続く)

JR二条駅から南へ徒歩5分ほどで三条通というアーケードの商店街に到着します。
 
アーケードを入ってほどなく、「弘(ひろ)千本三条本店」があります。和風な感じですね。

今回もガッツリ食べました。こちらは見本ではありません。牛の肉の名称が木の札に書かれています。
 
ブロッコリーやしいたけ、かぼちゃも美味しそうに調理してあります。
 
 

弘で食事を終えた後は、JR二条駅前のコメダへ。愛知県人はコメダに行きましょう
 
コメダの定番シロノワール。明日は京都府亀岡市まで足を延ばします。
令和2年7月6日(月)
~ No.1211 ドアラのフライパンが届きました ~
 月刊ドラゴンズ等で、この「ドアラのおもいのフライパン 」が紹介されていたので、少々値段が張りますが購入することにしました。といっても、5月の母の日の遅いプレゼントです。

 製品を作っているのは、愛知県碧南市の「石川鋳造㈱」です。さすがにドラゴンズの地元・愛知県の会社の製品ですね。

 今日の夕方ようやく届いたようですが、カミさんにもまずまず喜ばれました また、成人してしまったわが家の子どもらにも意外とウケがよかったようです。(幼いということ?)
 いずれにしても、料理が楽しくなることに少しは役立てそうですね
 
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