第43回関川マラソン 参戦記 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
東京を経由して出発 前泊をしてもよかったのであるが、東京・新潟間は夜行バスが走っている区間なので、今回も利用し、新潟駅を経由して現地に入った。新潟にはこれまでも何度か脚を運んでいるが、東京駅からの夜行バスの出発時間の方が遅く、名古屋よりも東京の方が新潟に近いと感じた次第。
関川村 関川村にやってくるのはもちろん初めて。ただし平成22年10月に山形県長井市の「第24回長井マラソン」の帰りに関川村を通る国道113号線を西進して通過をしたことがあるが、その時は関川村の存在には気がつかなかった。 関川村は新潟県の北東部に位置する人口約5,800人の村。県庁所在地の新潟市から約60km離れている。また昭和20年代になって地方自治制度の大改革が行われ、その中で昭和29年8月1日、町村合併促進法に基づき関谷村と女川村が合併し、現在の関川村が誕生している。 関川村のウリとしては、やはり国の重要文化財となっている「渡邉邸」であろう。この大会のハーフマラソンのスタート場所にもなっている。渡邉邸とは、3,000坪の敷地に500坪もある大邸宅のこと。渡邉家の初代は村上藩主の家臣で郡奉行として活躍。寛文5年(1665年)、家督を嗣子に譲り桂村に隠居、寛文7年に現在地の下関に転居したと伝えられてる。 その後、渡邉家の子孫は、廻船業や酒造業、新田開発などで富をなし、財政難に苦しんでいた米沢藩に幕末まで融資をして、米沢藩勘定奉行格の待遇を受けている。全盛期には75人の使用人を抱え、約1,000haの山林を経営、約700haの水田から10,000俵の小作米を収穫したといわれている。 また、12kmコースのスタートラインにある佐藤邸も国の重要文化財、その隣の津野邸は新潟県の重要文化財の指定を受け、この辺りは18世紀の町並みが残っている観光名所である。
関川村には、桂の関温泉、高瀬温泉、雲母温泉、鷹の巣温泉、湯沢温泉の5つの温泉があり、えちごせきかわ温泉郷と呼ばれている。ハーフマラソンのコース方面にある大石ダムのまわりは紅葉の名所。またハーフマラソン、12kmのコースの一部となっている丸山大橋は全国市町村道日本一のアーチ橋でもある。8月の最後の金土日には、えちごせきかわ「大したもん蛇まつり」が行われる。大里峠の大蛇伝説と、昭和42年の羽越大水害の犠牲者の供養がテーマとなって行われるが、ギネスに認定された長さ82.8m、重さ2トンの竹とわらで作った大蛇が約500人の担ぎ手とともに練り歩くのは見物のようです。
コース紹介(コースガイド) → こちらを参照してください。 レース JR坂町駅から会場まで主催者の無料送迎バスで会場に到着したのが午前8時17分。受付を済ませ、簡単にプログラムの確認をしてスタートの準備をする。12km部門のスタート場所は、せきからふれあいど〜むから400mほど離れた「佐藤邸」の前という。「佐藤邸」といわれても「???」。方向もよくわからないし、トイレにも行かなければならない。スタートに間に合わないことは避けたいので8時45分頃にはふれあいど〜むを出発する。同じ色のナンバーカードの人が国道を渡って道の駅の方に移動するので、一緒に付いていく。 軽くジョグをしていると、ようやくスタート地点の案内看板が見えてきた。国の重要文化財の渡邉邸の前がハーフマラソンのスタートであるが、さらに100mほど西の佐藤邸(こちらも国の重要文化財)の前が12kmコースのスタート地点であることがようやくわかった。
それにしても今日は朝から暑い。新潟県までやって来たのでもう少し涼しいかと思えば、関東と気温が変わらない。 午前9時、カウントダウンとピストルの合図でレースは始まった。 スタートしてすぐに「体が重いなあ」と感じる。関川村役場の前を過ぎてすぐに右折する。いきなり登り坂が始まる。「最初から登り坂?」ここで一気にペースダウン。さらに脚の動きが悪くなる。ざっと見た感じ私の前には20人以上の選手が走っている感じだ。 関川中学校前を右折すると、ブラスバンドの演奏と部活の合間を縫って応援してくれる中学生たちがいた。コース全体を通して、人口の少ないところを走るので、この応援は賑やかで嬉しかった。中学校の横を通り過ぎると墓地の合間を走り、しばらくするとコースはJR米坂線と並行する。遠くに雪渓の残った山々が見えてくる。先月見た飯豊連峰ではないかと想像しながら走る。
(終わってみて感じたが、この日は風や厚さコースの起伏もあるので、1kmごとのラップを取ってもあまり意味がないと途中で気がついた。) 1kmを過ぎてからペースがやや速いと感じ、少しペースを抑えることにする。すると2kmまでに一人、3kmまでにさらに2人に後方から抜かれてしまった。今日はコースの下見もしていないし、コースの起伏もよくわからないので前半からは無理しない方が良いだろうとは思っていたが、次々に抜かれていくと正直面白くない。
3kmを過ぎたところで給水所があったので、早めに一杯(ポカリスエット)をもらう。給水作業をしているおばちゃんたちがこちらを楽しそうに見ている。この日は暑く、コース上のそれぞれの給水所が非常にありがたかった。給水で息を吹き返したいところであったが、この3km過ぎの給水所からは登り坂が始まり4km過ぎまで苦しむことになる。おそらくペースが落ちていたのであろうか、さらに後方から3人に抜かれる。ここまでに合計6人の選手に抜かれ、抜いた選手は1人に留まっていた。 国道113号線に出てからは、歩道を走行する。ところがこの区間は「ゆずり車線」。つまり自動車でも勾配がきついので、スピードの出ない車は車線を譲るべき区間ということ。当然ランナーにとっても厳しい登り坂であることは間違いない。4km手前で左折してからもしばらく上り勾配が続きペースが一向に上がらない。 お野立公園にある「昭和天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑」の横を通り過ぎるあたりが、12kmコースのおそらく最高地点であろうか、ここからようやく下り坂が始まった。ここまで登ってきたのだから、おそらくこの先はある程度は下ることは容易に想像できた。下り坂の途中の5km地点を過ぎてもまだ下りは続く。荒川が左手に見えてきたところでコースは概ね平坦になる。このあたりで先ほど抜かれた選手を一人抜き返す。 この先には、高瀬温泉、湯沢温泉と小さな旅館が数軒建ち並ぶがその間に6km地点があり、給水所が設けられていた。ここでも水をコップで2つ取って飲んでみたところ何と水だ。普通の水と思って取っただけに、口に含むだけで飲むことはしなかった。もう一杯の水は体に掛けて体を冷やすために使用。ひんやりして今日は非常に気持ちがいい。
また、この日は気温も高く暑かったことには間違いないが、真夏の炎天下ほどでもないので、給水所に用意されていた「かぶり水」については遠慮させてもらった。 この給水所の目と鼻の先には、道路が上り勾配になっているのがしっかりと見えている。まさしく峠越えのためのエネルギー補給基地という感じの給水所であった。 さて、その7km過ぎの登り坂(8km手前と言った方がいいかもしれない)であるが、コースの下見をしていないので自重気味に走る。数百メートルで峠の頂上に到達。思ったほど長くは続かなかったので一安心。ちなみにこの峠の頂上付近が8km地点。残る距離は全コースの3分の1となった。 9km過ぎにも給水所がありここでもしっかりと給水を確保。ここで前からぺーすが落ちてきたランナーを一人拾う。しかしながら、給水をしてからこのランナーは元気となり、一旦は抜いたものの、10km過ぎに再度抜かれてしまうことになってしまった。暑くて給水ができずにいたところで生き返ったのであろうか。
橋を越えて左折すると、そこにも給水所があった。給水所は3km過ぎ、6km過ぎ、7km過ぎ、9km過ぎに続きこれで5カ所目だ。この日は暑かっただけに、これだけの数の給水所は非常にありがたかった。 この給水所はゴールまであと1.5kmほどのところに設置されている最後の給水所。ランナーとしても最後に残った力を出し切る区間であり、給水所の係員さんらもランナーの背中を押すように一生懸命に声を掛けてくれている。 先ほどまで併走していたランナーは、完全に息を吹き返し、私からはどんどん離れて行ってしまった。後続からは追いかけられる気配もなく、最後の給水所以降は単独走になってしまった。堤防道路を下り、ふれあいどーむ前にはゴールが見えてきた。 結局48分58秒もかかってしまったが、何とか年代別2位には食い込むことができた。また、スタート時に50分以内の看板のところから走り出したが、こちらについても何とかクリアして何とか有言実行を果たすことができた。
本日の戦利品
|